吉川『三国志』の考察 第250話「呉の外交(ごのがいこう)」

張飛(ちょうひ)の首を携えて降った范疆(はんきょう。范彊)と張達(ちょうたつ)の口から、孫権(そんけん)は蜀(しょく)の大軍が迫っていることを聞く。

そこでまず諸葛瑾(しょかつきん)を白帝城(はくていじょう)に遣わし、劉備(りゅうび)の説得を試みるも失敗。次いで趙咨(ちょうし)を曹丕(そうひ)のもとへ遣わすと、こちらは望外の成功を収め、魏(ぎ)から援助の確約を取りつけた。

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第250話の展開とポイント

(01)建業(けんぎょう)

蜀の大軍が呉(ご)の境へ急ぐ前のこと、張飛の首を船底に隠し、范疆(范彊)と張達は上流から千里を一帆に逃げ下っていた。

ふたりは建業に着くと、孫権に首を献じ、今後の随身と忠節を誓った揚げ句、声を大にして告げる。

「蜀軍70余万が、近く呉に向かって寄せてきます。一刻も早く国境へ大兵をお送りにならないことには、玄徳(げんとく。劉備のあざな)以下、積年の恨みに燃ゆる蜀の輩(やから)、堤を切った怒濤(どとう)のごとく、この江南(こうなん)や江東(こうとう)を席巻してしまうでしょう」

これを聞くやみな色を失う。孫権も寝耳に水だったので、即日衆臣を集めて対応を諮った。座中しばらく答える者もなかったが、ここで諸葛瑾が言う。

「一命を賭して、私が和睦の使いに参りましょう」

人々は冷笑の眼をもって彼を眺める。およそ諸葛瑾が行って、使命に成功した例しはないからだ。

けれど、たとえ不成功に終わるにせよ、その間に逸(はや)る敵の鋭気をなだめ、味方の軍備を万全となす効力はある。孫権は許した。

(02)白帝城

命を受けると、諸葛瑾はすぐに江船の奉行(ぶぎょう)に支度を言いつけ、孫権の書簡を奉じて長江(ちょうこう)をさかのぼる。

蜀の章武(しょうぶ)元(221)年の秋8月、劉備は大軍を進めて夔関(きかん)に着き、その地の白帝城を大本営とし、先陣は川口(せんこう)の辺りまで進出していた。

そこへ呉の使者として諸葛瑾が来たのである。劉備は会わないうちから肚(はら)が読めた。だが、黄権(こうけん)がしきりと会見するよう勧めたので、さらばと面前に通す。

諸葛瑾は、もとより呉は蜀に対して何の恨みもないと言い、関羽(かんう)将軍の死も蜀呉の葛藤も、突き詰めてみれば、みな魏の策略に踊らされているにすぎないと、弁を振るう。

さらに、仇(あだ)を討たれるというのなら、魏をこそ討たれるべきだと、畢生(ひっせい)の弁舌と知を絞って訴える。

無言を守っていた劉備は、ここでくわっと目を開き、諸葛瑾の能弁を手をもって制して言う。

「呉使、大儀であった。もうよい。席を退がって呉へ立ち帰れ。そして孫権に固く告げおけよ。朕、誓って近日まみえん。頸(くび)を洗うて待ち受けよと」

その威に打たれて諸葛瑾が頭を下げると、沓音(くつおと)が荒く玉座に鳴った。面を上げてみると、もう劉備はそこにいなかった。

温厚仁慈、むしろ引っ込み思案の人と言われている劉備が、かくまでの壮語を敵国の使者へ言い放った例しはない。諸葛瑾もここまで努力してみたが、とたんに心中で「これは駄目だ」と、見切りをつけずにはいられなかった。

この陣に弟の孔明(こうめい。諸葛亮〈しょかつりょう〉のあざな)が参加していないことも、いかに決意が固いものであるかを証拠立てていると思われた。

(03)建業

諸葛瑾の帰国により、呉はさらに大きな衝撃を感ずる。対戦一途。未曾有の決戦。そうした空気が急激にみなぎった。

呉の江水また山野から、前線に出る兵馬は続々と送られていく。そのあわただしい中を、中大夫(ちゅうたいふ)の趙咨が魏へ向かって出発した。

中大夫については先の第139話(02)を参照。ただそこでは中太夫とあったので、両者が同義なのかはイマイチわからず。

(04)許都(きょと)?

曹丕は孫権の表をざっと読んだ後、使者の趙咨に謁見を与える。

ここでは曹丕がどこにいたのかに触れていなかった。『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第82回)を見ると許都のようだが……。

曹丕はいろいろなことを尋ねたが、半ばからかい半分に、半ば呉の人物や内情を、談笑のうちに探ろうとするような口吻(こうふん)だった。

曹丕はこう尋ねた。

「使節に問うが、汝(なんじ)の主人孫権は、ひと口に言うとどのような人物か?」

趙咨は鼻のひしげた小男だったが、毅然として答えた。

「聡明仁知勇略のお方です」

聞いた曹丕は笑うが、趙咨は許しを得、主君の偉さについて説明する。

「呉の大才たる魯粛(ろしゅく)を凡人の中から抜いたのは、その聡です」

「呂蒙(りょもう)を士卒から抜てきしたのは、その明です」

「于禁(うきん)を捕らえて殺さず、その仁です」

「荊州(けいしゅう)を取るに一兵も損ぜなかったのは、その知です」

おおよそのイメージとしてはわかるが、荊州を取るに一兵も損ぜなかった、というのは大げさな表現だろう。

「三江(さんこう)に拠って天下を虎視す、その勇です」

『三国志演義(5)』の訳者注によると、「『三国志』(呉書・呉主伝〈ごしゅでん〉)には(三江ではなく)三州とあるという。(これは)揚州(ようしゅう。楊州)・荊州・交州(こうしゅう)を指す」ともあった。

「身を屈して魏に従う、その略です」

「どうして聡明仁知勇略の君と言わずして何と言いましょうか」

曹丕は笑いを収め、この鼻曲がりの小男を見直す。

「身を屈して魏に従う、これ略なり」とは、よくも思い切って言えたものかなと、魏の群臣もその不敵さにあきれていた。

やがて曹丕は、あえてこういう言葉を弄(ろう)した。

「いま朕は心のうちに、呉を討たんかと考えておる。汝はどう思うか?」

趙咨が答える。

「や、それも結構でしょう。大国に外征する勢力あれば、小国にもまた守御あり機略あり。何ぞ、ただ畏怖しておりましょう」

「では呉人は、常にも魏を恐れていないと言うか?」と曹丕。

「過大に恐れてもおりませんが、過大に馬鹿にしてもおりません。わが精兵100万、艦船数百隻。三江の険を池として、呉はただ呉を信じているだけであります」と趙咨。

曹丕は内心で舌を巻き、さらに尋ねる。

「呉の国には、汝のような人物はどれほどおるか?」

すると趙咨は腹を抱えて笑いだし、こう答えた。

「それがし程度の人間なら、升で量って車に載せるほどあります」

ついに曹丕は三嘆して、この使者を褒めちぎる。

「『四方ニ使シテ君命ヲ辱メズ』というのは、実にこの男のためにできている言葉のようだ。うい奴、うい奴。酒を取らせよ」

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『四方ニ使シテ君命ヲ辱メズ』は)『論語(ろんご)』子路篇(しろへん)の言葉」という。

趙咨はすっかり男を上げた。大変な歓待を受けたばかりでなく、彼の与えた好印象と呉の国威とは深く曹丕の心を捉えたとみえて、外交的にも予想以上の成功を収めた。すなわち曹丕は、趙咨の帰国に際して将来の援助を確約した。

また呉侯(ごこう)の孫権に対しては、「封じて呉王(ごおう)となす」と九錫(きゅうしゃく)の栄誉を加え、臣下の太常卿(たいじょうけい)の邢貞(けいてい)に印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を持たせ、趙咨とともに呉へ赴かせた。

九錫については先の第193話(02)を参照。

曹丕自身が決めたことなので、魏の朝臣はどうすることもできない。だが呉使が都を去るやいな、疑義嘆声はこもごもに起こり、「あの小男めに一杯食わされた形だ」となす者が多かった。

劉曄(りゅうよう)などは、面を冒して諫奏する。

「いま呉と蜀とが相戦うのは、実に天が彼らを滅ぼすようなもので、もし陛下の軍勢が呉蜀の間に進み、内に呉を破り、外に蜀を攻めるなら、両国もたちどころに崩壊を現すでしょう」

「それをあまりにはっきりと呉に助けを約されたのは、この千載一遇の好機をあたら逃したようなものかと存ぜられます。このうえは呉へ味方すると称して内部から攪乱(こうらん)し、一面、蜀を討つ計を急きょお巡らしあそばしますように」

だが、それでは信を天下に失うとして、聞き入れない曹丕。

なお劉曄は、孫権に呉王の位を贈り、九錫の重きをお加えになられたことは、わざわざ虎に翼を添えてやったようなものだと説く。

しかし曹丕は、すでに孫権は臣礼を執っているとして、背かぬ者を討つ名分はないと答える。

これを聞き、劉曄が続けた。

「それはまだ孫権の官位も軽く、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)・南昌侯(なんしょうこう)という身分にすぎないからでした」

孫権が驃騎将軍・南昌侯となり、荊州牧(けいしゅうぼく)を兼ねたことについては、先の第242話(03)を参照。ここにあるように、このとき孫権の爵位は南昌侯だった。それを呉侯と呼び続けてきたため、ここまでかなりの違和感が生じていた。

「けれどもこれからは呉王と称し、陛下ともわずか一階を隔つる身になってくれば、自然と心は驕(おご)り、勢威はつき、何を言いだしてくるかわかりません」

「そのとき陛下が逆鱗(げきりん)あそばし、討伐の軍を発せられましょうとも、世人はそれを見て、『魏は江南の富や美女を掠(かす)めんとするものである』と、口をそろえて非を鳴らすでしょう」

曹丕は答えた。

「否とよ。まあしばらく黙って見ておれ。朕は蜀も助けず、呉も救わず、ただ正統にいて、両者が戦って力の尽きるのを待っておる考えじゃ。多くを言うな」

そこまでの深慮遠謀があってのことならと、劉曄は慙愧(ざんき)して退く。

(05)建業

外交の大成功と、孫権が呉王に封ぜられたという吉報は、早くも内報的に建業城へ伝えられていた。やがて、魏の勅使の邢貞が船で着いたと聞こえると、あわてて孫権は出迎えの支度をしかける。

いそいそと浮かれぎみであるのを見、顧雍(こよう)は苦りきって言った。

「何も魏の臣下などをお迎えに出るに及ばないでしょう。わが君にはすでに江東江南の国主ではありませんか? どうして、いまさら他人の官爵をありがたがって受ける必要があるものですか」

だが孫権は、それは気が小さい言葉だと応ずる。こうして群臣を従えて建業の門を出た。遠く出て迎えの礼を厚くするためである。

邢貞は上国の勅使ということで、すこぶる傲慢に臨む。しかも、あえて車を降りずに城門を通ろうとした。

すると張昭(ちょうしょう)が甚だしく怒り、邢貞の無礼に大喝を加える。堵列(とれつ)の群臣も声を合わせて言う。

「呉国三代、まだ他国に屈したことはない。しかるにこの非礼なる使者を迎え、わが君に他人の官爵を頂かせることの口惜しさよ、無念さよ!」

中には激して泣き声を発する者さえある。邢貞はあわてて車から飛び降りて詫びた。そして、いま泣きながら叫んでいたのが偏将軍(へんしょうぐん)の徐盛(じょせい)だと知ると、もう一度、彼に非礼を謝して通った。

それでも孫権は、あらゆる礼遇と歓待で使節に接する。大魏皇帝(たいぎこうてい)の名をもって贈られた呉王の封爵も、心から喜んで受けた。即日、建業城中にこの旨を告げ、文武百官の拝賀も受ける。

邢貞が近く魏に帰国する日となると、孫権は江南の善美を尽くした別宴を開く。この席上ではおびただしい土産物を山と積み、「どうかお持ち帰りください」と披露した。

魏の宮中にいて豪華には慣れている邢貞も、その土産物の莫大(ばくだい)なことには思わず目を丸くしたほどである。

珠玉・金銀・織物・陶器。犀角(さいかく)・玳瑁(たいまい)・翡翠(ひすい)・珊瑚(さんご)。孔雀(クジャク)・闘鴨(とうおう)・鳴鶏。世の七宝百珍にあらざる物はない。これらは金鞍(きんあん)の白馬100頭の背に美しく積まれ、江岸の客船まで送り届けられた。

その後、張昭はつぶやくごとくなじる。

「きっと曹丕は思い上がりましょうよ。いくら何でも、あのような礼物はあまりに過大です。媚態(びたい)すぎました」

しかし、孫権は軽く笑って言った。

「いやいや。欲には飽くことを知らないのが人間だ。先に取ってはさほど過大とは思わないだろう。要するに、彼とは利をもって結ぶしかない。だが後には、あのような礼物はみな石瓦(瓦のかけらや石ころ。価値のない不用物の例え)にすぎんさ」

張昭は急に顔を解き、うれしそうにうなずく。呉三代の主君に仕えてきた宿老として、とかく幼稚に思われてならなかった孫権が、いつの間にかかくのごとき大腹中の人となってきたことが、涙のこぼれるほどありがたかったに違いない。並み居る臣下もみな、孫権の深慮に嘆服した。

ここで呉三代の主君に仕えてきたとあったが、張昭は孫堅(そんけん)には仕えておらず、孫策(そんさく)の時に招かれた。先の第54話(02)を参照。

管理人「かぶらがわ」より

魏の曹丕から呉王に封ぜられた孫権。これまでも便宜上、呉の孫権と呼ばれていましたが、そう呼んでいいのはこのあたりからでしょう。

『三国志演義』(第80回)では、帝位に即いた曹丕が洛陽(らくよう)に遷都したことに触れていますが、吉川『三国志』では触れていません。なのでこの第250話では、呉の趙咨が魏のどこへ使いしたのかがわかりにくくなっていたと思います。

本文中でも触れましたが、『三国志演義』(第82回)では、趙咨が許都で曹丕と会ったことが書かれていました。

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