吉川『三国志』の考察 第139話 「許都と荊州(きょととけいしゅう)」

諸葛亮(しょかつりょう)の鮮やかな軍略の前に、博望坡(はくぼうは)で大敗を喫した夏侯惇(かこうじゅん)が許都へ逃げ戻ってくる。

しかし曹操(そうそう)は夏侯惇をとがめず、今度は自ら80余万の大軍をひきいて荊州を目指す。この急報に驚いた劉表(りゅうひょう)は、再び劉備(りゅうび)を病床に招き――。

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第139話の展開とポイント

(01)新野(しんや)

諸葛亮(しょかつりょう)は劉備(りゅうび)に、病が重い劉表(りゅうひょう)から荊州(けいしゅう)を借りて万策を図るよう勧める。荊州に拠れば、地は広く険は狭く、軍需財源すべて十分だと。

しかし彼がどう説いても、劉備は、恩人である劉表から荊州を奪うようなことはできないと言うばかりだった。

(02)許都(きょと) 丞相府(じょうしょうふ)

博望坡(はくぼうは)で大敗を喫した夏侯惇(かこうじゅん)は命からがら都へ逃げ戻ると、自ら面縛して恐る恐る階下にひざまずく。

曹操(そうそう)はその姿を見て苦笑し、「あれを解いてやれ」と左右の者に顎(あご)で言いつけ、階を上がることを許す。

夏侯惇は庁上に慴伏(しょうふく。恐れてひれ伏すこと)し、問われるまま戦(いくさ)の次第を報告。

すると曹操は、「この後の機会に今日の恥をそそぐがよい」と叱っただけで、深くもとがめなかった。

建安(けんあん)13(208)年の7月下旬、曹操は80余万の大軍を催す。先鋒を4つの軍団に分かち、中軍には5つの部門を備え、後続、遊軍、輜重(しちょう)など物々しい大編制で、明日は許都を発せんと号令。

『三国志演義(3)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第40回)では、建安13(208)年秋7月丙午(ひのえうま)の日とある。ただ、同じく井波『三国志演義(3)』の訳者注によると「建安13(208)年7月に丙午の日はない」ともいう。

また井波『三国志演義(3)』(第40回)では、このとき曹操が動かした軍勢は50万(10万ずつに分けた5部隊)と3千(許褚〈きょちょ〉の先鋒部隊)。

夏侯惇の敗戦後、それだけ速やかに曹操自身が出馬したということだと思うが、 前の第138話(03)では、夏侯惇が博望坡に迫ったのが建安13(208)年の秋7月だとあった。それが仮に月初のことだったとしても、原文にある「その年の7月下旬」に曹操が許都を発てるものなのか? 日数的に厳しい感じがした。

この記事の主要テキストとして用いている新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると「(中太夫とは)太中大夫(たいちゅうたいふ)のこと。皇帝(こうてい)の補佐官で、状況に応じた任務を与えられる。俸禄は千石(せき)」という。

曹操は叱り、「なお申さば斬るぞ」と一喝に退けてしまった。

孔融は慨然として府門を出ながら、「不仁をもって仁を伐(う)つ。敗れざらんや。あぁ!」と嘆いて帰る。

近くにたたずんでいた厩(うまや)の小者がこれをふと耳にして、主人の郄慮(げきりょ。郗慮〈ちりょ〉)に告げ口。

井波『三国志演義(3)』(第40回)では、孔融の言葉を聞き伝えたのは郗慮の食客。

郄慮は日ごろから孔融と仲が悪かったので、さっそく曹操に目通りし、輪に輪をかけ讒言(ざんげん)する。

曹操はかなり長い間しゃべらせておいたが、自分はひと言も発せず、非常に嫌な顔つきをしていた。そして、聞くだけ聞き終わるといきなり、「うるさい、あっちへ行け」と顎を上げ、郄慮を蠅(ハエ)のように追い払う。

讒者の肚(はら)を看破したのかと思いきや、たちまち廷尉(ていい)を呼び、「すぐ行け」と何か言いつける。

新潮文庫の註解によると「(廷尉は)九卿(きゅうけい)のひとつ。司法をつかさどる。俸禄は中二千石」という。

(03)許都 孔融邸

廷尉は一隊の武士と捕吏を引き連れ、不意に孔融の屋敷を襲った。孔融は何の抵抗をする間もなく召し捕られる。召し使いのひとりが奥へ走り、泣きながら息子たちに知らせた。

ふたりの息子は碁を囲び遊んでいたが少しも驚かず、「巣すでに破れて、卵の破れざるものあらんか」と、なお二手三手うっていた。

原文「なお二手三手さしていた」だったが、ここは碁ということなので、「さして」ではなく「うって」としておく。なお井波『三国志演義(3)』(第40回)では、ふたりの息子は将棋を指していたことになっていた。

もちろん、踏み込んできた捕吏や武士の手に掛かり兄弟とも斬られてしまう。屋敷は炎とされ、父子一族の首は市に掛けられた。

荀彧(じゅんいく)は後でこのことを知ったが、「どうも困ったものです……」と苦々しげに言ったきり、いつものように諫言しなかった。

井波『三国志演義(3)』(第40回)では、ここで脂習(ししゅう)が孔融の屍(しかばね)に取りすがり、声を上げ泣いた話を挟んでいる。激怒した曹操は脂習を殺そうとしたが、荀彧に諫められて思いとどまったとも。結局、脂習は孔融父子の遺体を引き取り、すべて埋葬したとあったが、吉川『三国志』では脂習を使っていない。

(04)荊州(襄陽〈じょうよう〉)

曹操自ら許都の大軍をひきいて南下するようだと、頻々と急が伝えられる中、劉表は枕も上がらぬ重体を続けていた。

劉表は劉備を病室に招き、切れぎれの呼吸(いき)の下から説く。自分亡き後、この国を譲り受けてほしいと。

それでも劉備はどうしても承知せず、諸葛亮は後からその由を聞き、「あなたの律義は、かえって荊州の禍いを大にしましょう」と痛嘆した。

その後、許都100万の軍勢はすでに都を発したと聞こえてきたので、劉表は気魂もおののき飛ばし、遺言状をしたため後事を頼む。御身(あなた。劉備)が承知してくれないならば、嫡子の劉琦(りゅうき)を荊州の主に立ててほしいというものだった。

蔡夫人(さいふじん)は穏やかならぬ胸を抱く。

彼女の兄の蔡瑁(さいぼう)や腹心の張允(ちょういん)も大不満を含み、早くも「いかにして琦君を排し、劉琮(りゅうそう)の君を立てるか」を、日夜ヒソヒソと凝議していた。

そうとも知らず、長男の劉琦は父の危篤を聞き、遠く江夏(こうか)の任地から急いで荊州へ帰ってくる。旅舎で休憩もせずに登城したが、内門の扉は固く拒んで入れない。いくら開門を求めても蔡瑁が応じず、やむなく劉琦は馬を返し立ち去った。

(建安13〈208〉年の)秋8月の戊申(つちのえさる)の日、ついに劉表は臨終する。

井波『三国志演義(3)』の訳者注によると「(建安13〈208〉年の戊申の日は)25日にあたる」という。

蔡夫人・蔡瑁・張允などが偽の遺言状を作り、「荊州の統は弟の劉琮をもって継がすべし」と披歴した。蔡夫人の生んだ次男の劉琮は、この時まだ14歳ながら非常に聡明(そうめい)な質だった。

ある折、劉琮は宿将や幕官らのいる所でこのように問う。

「亡父君(ちちぎみ)のご遺言とはあるが、江夏には兄上がおられるし、新野には外戚(がいせき)の叔父の劉玄徳(りゅうげんとく。玄徳は劉備のあざな)がおられる。もし兄(このかみ)や叔父がお怒りの兵を挙げ、罪を問うてきたら何とするぞ」

外戚については、本来は母方の親類や妻の一族のことだと思うが、ここでは単に親戚という意味で使われているようだ。

蔡夫人も蔡瑁も顔色を変えあわてたが、末席にいた幕官の李珪(りけい)は発言を称える。李珪は、兄君を迎え国主に立てたうえ、劉備を補佐としてまずは内政を正すよう直言した。

蔡瑁は赫怒(かくど。怒るさま)して賊臣呼ばわりし、抜き払った剣で首を斬る。李珪の遺骸(いがい)は市の不浄墳(ふじょうづか)に取り捨てられたが、市人は伝え聞き涙を流さぬはなかったという。

襄陽の東40里(り)、漢陽(かんよう)の壮麗なる墓所に劉表の柩(ひつぎ)は埋葬された。

蔡氏一族は劉琮を国主とし、思うままに政(まつりごと)を動かしたが、時まさに未曾有(みぞう)の国難の迫っている折、このような態勢で乗り切れるのか、心ある者は危ぶむ。

蔡夫人は劉琮を守護し、軍政の大本営を襄陽城に移した。

この一文はよくわからなかった。この時の荊州城というのが、まさに襄陽城のことではないだろうか? なお、荊州城と襄陽城との扱いに混乱が見られることについては、先の第122話(03)を参照。

武官側の主戦論が濃厚だったものの、文官側にはなお異論が多い。東曹掾(とうそうえん)の公悌(こうてい)などは、3つの弱点があると言い国内の不備を数え、非戦論を主張した。

新潮文庫の註解によると「(公悌は)傅巽(ふそん)のあざな」だという。

公悌が主張した3つの弱点についての詳細は割愛するが、劉琦の存在、劉備の存在、あらゆる備えが臨戦態勢にない、という三弱を挙げていた。

ここで王粲(おうさん)が公悌の説に賛同の声を上げ、さらに3つの害を力説する。

王粲が力説した3つの害についても詳細は割愛するが、(曹操に)抗する者は違勅の汚名を受ける、荊州兵は久しく実戦の体験がない、劉備を頼んでも曹操は防げない、というような三害を挙げていた。

結局は降伏の道しかなく、襄陽の使いは和を乞う書状を携え、南進中の曹操のもとへ急きょ遣わされた。

管理人「かぶらがわ」より

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吉川『三国志』 (06) 赤壁の巻
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