劉備(りゅうび)は75万の大軍とともに東進していたが、野営地で張飛(ちょうひ)の訃報に接する。やむなく陣中にささやかな祭壇を設け、亡き張飛を弔った。
翌日、劉備が出発しようとしたところ、張飛の嫡子の張苞(ちょうほう)が駆けつける。さらに同じ日に、関羽(かんう)の次男の関興(かんこう)も合流した。ふたりの雄姿を見た劉備は涙を流し、大いに気を取り直す。
第249話の展開とポイント
(01)行軍中の劉備
(蜀〈しょく〉の章武〈しょうぶ〉元〈221〉年の)大暑7月、すでに蜀軍75万は成都(せいと)を離れ、延々と行軍を続けていた。
諸葛亮(しょかつりょう)は劉備に侍し、100里の外まで送ってきたが、「ただ太子(劉禅〈りゅうぜん〉)の身を頼む。さらばぞ」と促され、心なしか愁然と成都へ帰る。
★『三国志演義(5)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)(第81回)では、諸葛亮らが劉備の出発を見送ったのは10里の地点までとある。
すると翌日、劉備らが野営を張って途中に陣していると、張飛の部下の呉班(ごはん)が、馬も人も汗に濡れて追いつく。
★井波『三国志演義(5)』(第81回)では、呉班は上表文を書いて劉備に知らせた後、張飛の長男の張苞に命じ、父の遺体を棺に納めさせたとある。そして、張飛の次男の張紹(ちょうしょう)に閬中(ろうちゅう)を守備させてから、張苞を劉備のもとへ遣り、報告させたともあった。なお吉川『三国志』では張紹が登場しない。
呉班は一通の表を差し出す。それを侍側の手から受け取る劉備。一読するや否や「アッ? 張飛が!」と言い、ぐらぐらと眩暈(めまい)を覚えたらしい。危うく昏絶(こんぜつ)しそうになった額を押さえ、その後はただうめいていた。
手足はおののき、顔色は真っ青に変わり、額から汗を流していたが、やがてつぶやく。
「虫の知らせか、昨夜は二度も夜半に目が覚め、何となく魂(こころ)が驚いてならなかったが……」
そして涙し、白い唇から力なく言った。
「是非もない宿命。せめて今宵は祭をせん。壇を設けよ」
翌朝この地を発とうとすると、ひとりの若い大将が、白い戦袍(ひたたれ)に白銀(しろがね)の兜(かぶと)と鎧(よろい)を着け、一隊の軍馬をひきいて急いでくる。
これは張飛の嫡子の張苞だったが、劉備は、悲しみのうちにもひとつの喜びと、大いに気を取り直した様子だった。
さらに同じ日に、関羽の次男の関興も一手の兵を連れて会する。関羽の子を見て、劉備は涙を新たにした。
あるとき陳震(ちんしん)が、劉備にこう告げる。
「この近くに青城山(せいじょうざん)という霊峰がございます。そこに住む李意(りい)という一仙士は天文地利を詳しく占い、世人から当世の神仙と言われております。勅をもって招き、このたびの事の吉凶を一度占わせてみてはいかがでしょうか?」
劉備はあまり気の進まない態だったが、諸将にも勧める者が多かったので、陳震を遣って陣中へ招くことにした。
陳震は青城山の庵(いおり)を訪ね、慇懃(いんぎん。丁寧)に礼を尽くして事情を語り、初めは渋っていた李意を連れ帰る。
劉備は、前途の吉凶を卜(うらな)ってほしいと言ったが、李意は、すべては天数、すなわち天運だから、わからないと答えた。
それでも再三の下問に、とうとう李意も否みかねたか、紙と筆を求めて黙然と何か描きだす。見ると子どもが描く絵のように、兵馬や武器の類いを描き、これを片っ端から破いては捨てる。描いては捨て、描いては捨て、100帖(じょう)の紙をみな反故(ほご)にした。
そして最後の一枚には、一個の人形が仰向けに臥(が)し、そばにひとりの人物が土を掘り、人形を埋めようとしている態を描いた。
李意は少し筆を休めて自分の絵を見ていたが、やがてその上に「白」と一字を書き、筆を投ずる。この後は「どうも恐れ多いことで……」と、何やら意味のわからないことをつぶやいて百拝し、霧のごとく帰ってしまう。
李意の去った後を眺め、劉備は喜ばない顔色をした。近側の大将たちへこう言いつける。
「つまらぬ者を迎えて無用な暇をつぶした。おそらくは狂人であろう。早くこの紙くずを焼き捨ててしまえ」
そこへ張苞が来て、前面に呉軍(ごぐん)が現れたようだと告げ、先陣を願い出た。
劉備が先鋒の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を取り、手ずから授けようとしたところ、階下から関興が進み出て、彼もまた先鋒を望む。
やむなく劉備は、ふたりに武技を競わせてみる。
張苞は300歩の彼方(かなた)に旗を植え並べ、旗の上に付けた紅の小さい的を狙って矢を放つ。一箭(いっせん。一本の矢)一箭、紅的を砕き、ひとつとして誤らなかった。
続いて弓を執った関興は、身を半月のごとく反らし、引き絞った弓矢を宙天に向ける。折々、雁(ガン。カリ)の声が雲をかすめていた。
しばらく息を込めて空をにらんでいるうちに、一列の雁行(がんこう)が真上にかかるや、弦音高く一矢を放つ。矢うなりとともに、一羽の雁が地に落ちてきた。
躍起になった張苞。父の遺愛たる丈八の矛を手に、あわや関興と一戦に及ぼうとする。
★張飛の遺愛の矛とは蛇矛(じゃぼう)のこと。『三国志演義 改訂新版』(立間祥介〈たつま・しょうすけ〉訳 徳間文庫)の訳者注によると、「(蛇矛は)穂先が蛇のように曲がっている矛」だという。
劉備はふたりを叱ってから、こう言った。
「これからは亡き関羽と張飛も同様に、汝(なんじ)らも仲良くせよ。年上のほうを兄と定め、父に劣らぬ交わりをしていくがよい」
ふたりは再拝して違背なきを誓う。関興は張苞よりひとつ年上だったので、彼が兄となり、兄弟の誓いを立てた。
★井波『三国志演義(5)』(第81回)では、張苞のほうがひとつ年上だったので、張苞を兄と見なして誓いを立てたとある。
敵軍がだいぶ近づいてきたとの警報が頻々だった。劉備は先陣の水陸軍のふた手に関興と張苞を立て、自身もすぐ後陣として続く。この日から行軍は臨戦隊形になり、怒濤(どとう)のごとく呉の境へ急いだ。
管理人「かぶらがわ」より
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・関羽伝)によると、関興は幼いころから評判が高く、丞相(じょうしょう)の諸葛亮も才能を高く評価したということです。
関興は20歳で侍中(じちゅう)・中監軍(ちゅうかんぐん)になりますが、数年後に亡くなったともありました。
また関興には、跡継ぎの関統(かんとう)や庶子の関彝(かんい)という息子の名も見えます。
『三国志』(蜀書・張飛伝)によると、張苞は早くに亡くなったとあるだけで、具体的な経歴には触れられていません。ただ、息子の張遵(ちょうじゅん)の記事があるので、子を儲けてから亡くなったようです。
なので、関興と張苞との絡みはほぼすべて創作ということになりますが、イメージを壊さない形できれいにまとめてありました。
李意の使い方は難しかったと思います。せっかく前途を占ってもらっても、結果が決まっているのなら無意味だったのではないか、とも。
李意の話は『三国志』(蜀書・先主伝〈せんしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く葛洪(かつこう)の『神仙伝(しんせんでん)』に見え、そこでは仙人の李意其(りいき)となっており、蜀の人だったと言います。
累代、彼に会った話が伝えられていて、実際は漢(かん。前漢〈ぜんかん〉)の文帝(ぶんてい。劉恒〈りゅうこう〉。在位、前180~前157年)の時代の人と言われているのだとも。つまり不思議キャラのひとりなのですね。
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