吉川版『三国志』の考察 第248話 「桃園終春(とうえんしゅうしゅん)」

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閬中(ろうちゅう)で劉備(りゅうび)の即位と自身の昇進を聞いた張飛(ちょうひ)は大喜び。さっそく成都(せいと)へ出向いて劉備に会うや、涙ながらに関羽(かんう)の敵(かたき)である孫権(そんけん)討伐を促す。

これを受けて劉備が出兵の大命を下すと、蜀(しょく)の内部では反対の声が上がる。しかし劉備は聞き入れようとせず、221年7月、自ら75万の大軍をひきいて成都を発つ。だが、そのころ閬中では一大事が起こっていた。

第248話の展開とポイント

(01)閬中(ろうちゅう)

斗酒を傾けてもなお飽かない張飛(ちょうひ)である。こめかみの筋を太らせ、顔ばかりか目の内まで赤くし、勅使に唾(つば)を飛ばして無念な思いを語った。そして勅使が帰ってほどなく、蜀(しょく)の決起を促さんと張飛自身も成都(せいと)へ上る。

井波版『三国志演義』(第81回)では張飛も勅使とともに成都へ向かったとある。

(02)成都

深く桃園の盟を守りともに誓っていることは、劉備(りゅうび)とて今も同じ。

「桃園の盟」については先の第9話(01)を参照。

身の老齢を思い、いったん人生の晩節を悟り、「われ呉(ご)とともに生きず」と宣言してからの彼は、以来毎日のように練兵場へ行幸(みゆき)する。そこで自ら兵を閲して軍馬を訓練し、ひたすらその日を期していた。

けれど諸葛亮(しょかつりょう)を始め、社稷(しゃしょく。国家)の将来を思う文武の百官は、「陛下には九五(きゅうご)の御位(みくらい)に即いて日も浅いのに、ここで大戦を起こすなど、決して宗廟(そうびょう)の政を重んずる所以(ゆえん)でない」と、反対の説が多い。

新潮文庫の註解(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「(『九五の御位』とは)天子(てんし)の位をいう。『周易(しゅうえき)』乾卦九五『飛天在天』を典拠」という。

そのため劉備は心ならずも、出兵を遷延している状態だった。

折ふし張飛が成都へ出てくる。その日も劉備は朝廷を出て練兵場の演武堂にあると聞き、彼は禁門(宮門)に入る前にそこへ行き、天子に拝謁した。

そのとき玉座の下に拝伏するや天子の御足を抱き、声を放って泣いたという。劉備もまた背をなで、細やかに彼の悲情を慰めた。

張飛はしきりに呉への出兵を促す。すると劉備もこの一瞬に勇断を奮い、ついに大命を下してしまったのである。

「そちはただちに軍備を整え、閬中から南へ出でよ。朕も大軍をひきいて江州(こうしゅう)に出で、汝(なんじ)と合して呉を討つであろう」

張飛は頭を叩(たた)いて喜び、階を跳び下りるとすぐに閬中へ帰っていく。

それでもたちまち内部の反対が燃え、学士(がくし)の秦宓(しんふく)は直言し、その非を諫奏した。しかし、劉備は頑として耳も貸さない。彼の温和で保守的な性格から言えば、晩年のこの挙はまったく別人の観がある。

諸葛亮も表を奉り、呉を討つもよいが、今はその時ではありませんと極力諫奏したが、ついに劉備を思いとどまらせることはできなかった。

蜀の章武(しょうぶ)元(221)年の7月上旬、蜀軍75万は成都を発つ。この中には、かねて南蛮(なんばん)から援軍に借り受けておいた、赤髪黒奴の蛮夷隊(ばんいたい。異民族の部隊)も交じっていた。

このことについては前の第247話(03)を参照。

諸葛亮は成都に残る。馬超(ばちょう)と馬岱(ばたい)も、鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)の魏延(ぎえん)とともに漢中(かんちゅう)の守備に残された。ただし漢中の地は、前線へ兵糧を送るためにも重要な部署ではあった。

発向した出征軍は、先陣に黄忠(こうちゅう)、副将に馮習(ふうしゅう)と張南(ちょうなん)。

ここで副将のひとりとして登場した「張南」は、先の第120話(02)で出てきた人物とは同姓同名の別人である。

中軍護尉(ちゅうぐんごい)に趙融(ちょうゆう)と廖淳(りょうじゅん)。

井波版『三国志演義』(第81回)では、「中軍護尉」は「傅肜(ふとう)」と「張翼(ちょうよく)」となっており、趙融と廖淳は後詰めに任ぜられたとある。

後ろ備えには直臣の諸大将。宗徒(むねと。頼りになる家来)の旗本など堅陣雲のごとく、蜀の峡中から南へ南へと押し流れていった。

「直臣」については先の第51話(02)を参照。

(03)閬中

ところが、ここに蜀にとって悲しむべき一事件が突発した。それは張飛の一身に起こった不測の災難である。あれから急いで閬中へ帰った張飛は、陣の将士に出陣の用意を命じた。部将の范疆(はんきょう。范彊)と張達(ちょうたつ)を呼び、こう言いつける。

「このたびの討呉の一戦は義兄(あに)の関羽(かんう)の弔い合戦だ。兵船の幕から武具・旗・鎧(よろい)・戦袍(ひたたれ)のたぐいまですべて白となし、白旗白袍(はくほう)の軍装で出向こうと思う」

「ついてはお前たちが奉仕し3日の間に調えろ。4日目の早天には閬中を出発するから、違背なくいたせよ」

ふたりは承知したものの、目を丸くした。無理な日限である。どう考えてもできるわけがないとすぐに思ったからだ。

だが、張飛の性質を知っているので、いったん引き退がって協議してみる。そして再び張飛の前に出て事情を訴えた。

「少なくとも10日の猶予をください。到底そのような短時日にはできるわけがございません」

張飛は酒に火が落ちたように、カッと青筋を立てた。そばには参謀たちもいてすでに作戦にかかっており、彼の気持ちは、もう戦場にある日と変わりないものになっていたのである。

張飛は武士に命じて范疆と張達を縛り、陣前の大樹にくくりつけた。のみならず、鞭(むち)をもってふたりを殴る。味方の者の見ている前でこのことを与えられた范疆兄弟は、絶対なる侮辱を覚えたに違いない。

ここでは「范疆兄弟」とあった。范疆と張達が兄弟だったという設定なのか? または義兄弟という可能性もあるのか?

けれどもふたりは、やがて悲鳴の中から罪を謝して叫んだ。

「お許しください。やります! きっと3日のうちにご用命の物を調達いたします!」

しごく単純な張飛は、こう言って縄を解く。

「それみろ、やればできるくせに。放してやるから必死になって調えろ」

その夜、張飛は諸将とともに酒を飲んで眠った。平常もありがちなことだが、その晩はわけても大酔したらしく、帳中へ入ると床の上に鼾(いびき)をかいて寝てしまったのである。

すると二更(にこう。午後10時前後)のころ、ふたりの怪漢が忍び込み、やや久しく帳内の壁にへばりついていた。范疆と張達の兄弟だった。

井波版『三国志演義』(第81回)では、ふたりが張飛の陣幕へ忍び込んだのは「初更(しょこう。午後8時前後)ごろ」とある。

ふたりは寝息を十分にうかがい済まし、懐中の短剣を持つやいな、やにわに寝姿へ躍りかかって寝首を搔(か)いた。

首を提げ、飛鳥のごとく外の闇へ走ったかと思うと、閬江(ろうこう)のほとりに待たせてあった一船に跳び込み、そのまま一家一族数十人とともに、流れを下って呉へ奔る。

実に惜しむべきは張飛の死。好漢惜しむらくは性情粗であり短慮であった。まだまだ彼の勇は蜀のため用うる日は多かったのに、桃園の花燃ゆる日から始まって、ここにその人生を終わった。このとき55歳だったという。

意外だが、(正史の)『三国志』には関羽や張飛の生年についての記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

ここでまさかの張飛の死。豪快さが魅力の彼でしたが、軽率な振る舞いも多すぎました。蜀のど真ん中に立つはずだったのに、あまりに残念な最期ですね。

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