生前の諸葛亮(しょかつりょう)が案じた通り、ほどなく魏延(ぎえん)が反乱を起こす。南鄭(なんてい)に入った楊儀(ようぎ)と姜維(きょうい)は、諸葛亮から託された計略に従い、あえて城外へ出たうえ、魏延にあることをしてみせるよう言う。
魏延が言われた通り叫んだところ、彼のすぐ後ろにいた馬岱(ばたい)にあっけなく討ち取られた。成都(せいと)で諸葛亮の葬儀が執り行われた後、その遺言により、遺骸(いがい)は漢中(かんちゅう)の定軍山(ていぐんざん)に葬られた。
第311話の展開とポイント
(01)引き揚げ途中の蜀軍(しょくぐん)
旌旗(せいき)色なく、人馬声なく、蜀山の羊腸たる道を哀々と行くものは、五丈原頭(ごじょうげんとう)の恨みを霊車(霊柩車〈れいきゅうしゃ〉)に駕(が)して、むなしく成都へ帰る蜀軍の列だった。
★原文「施旗色なく」だが、ここは「旌旗色なく」としておく。なお、講談社版(新装版)やそれより古い講談社版では、「旌旗色なく」となっていた。
「行く手に煙が望まれる。この山中に不審なことだ。誰か見てこい」
楊儀と姜維は物見を放ち、しばらく行軍を見合わせた。すでに道は有名な桟道の険阻に近づいていたのである。
一報、二報。偵察隊は次々に帰ってきた。この先の桟道を焼き払い、道を阻めている一軍があると言い、それは魏延に違いないとのこと。
文吏である楊儀が色を失うと、姜維が言った。
「心配はない。日数はかかるが、槎山(さざん)の間道を通れば、桟道によらずに南谷(なんこく)の後ろへ出られる」
★『三国志演義(7)』(井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま文庫)の訳者注によると、「『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・魏延伝)に『楊儀等槎山通道、昼夜兼行』というが、槎山通道はもともと『山の木を切り開いて道を通す』という意味である」という。
険阻や隘路(あいろ)を迂回(うかい)して、全軍は辛くも南谷をふさいでいる魏延軍の後ろへ出た。
途上から楊儀は、この顚末(てんまつ)を成都へ報ずる。ところがその前に、魏延からも上表が届いていた。
(02)成都
「楊儀、姜維の徒が、丞相(じょうしょう。諸葛亮)の薨(こう)ぜられるや、たちまち兵権を横奪し、乱を企てております。臣は彼らを討つ所存です」
これが魏延からの上奏であり、後から届いた楊儀の上表には、それとはまったく反対の実情が訴えられてきた。
諸葛亮の訃が報ぜられると、成都宮の内外は哀号の声と悲愁に閉じられ、劉禅(りゅうぜん)も皇后も日夜悲しみ嘆いている。
★皇后については先の第259話(02)を参照。
そのような折なので、この変に対しても、いかに裁いてよいかと判断に迷った。
すると蔣琬(しょうえん)が、こう言って慰める。
「丞相は遠く出られる日より、密かに魏延の叛骨(はんこつ)は憂いの種としておられました。平素そのご活眼ある丞相のことゆえ、必ずや死後の慮りをなされ、何らかの策を遺して逝かれたに違いありません。しばらく次の知らせをお待ちあそばしませ」
蔣琬の言はさすがによく事態を見、諸葛亮の遺志を知るものだった。
★井波『三国志演義(7)』(第105回)では、この意見を述べたのは蔣琬ではなく呉太后(ごたいこう)。
(03)南谷(褒谷〈ほうこく〉)
魏延は数千の手勢をもって桟道を焼き落とし、南谷を隔てて構えていた。だが、相手が間道づたいに後ろへ迫っていたことに気づかなかった。必然、彼の盛んなる覇気叛骨も一敗地にまみれ去る。
魏延の手勢の大半は、千尋の谷底へ追い落としを食らい、残余の兵を抱えて命からがら逃げ延びた。
(04)南鄭
魏延は付き従っていた馬岱に励まされ、兵備を改めて南鄭への急襲をもくろむ。
南谷を渡り、魏延に一痛打を加え去った楊儀と姜維らは、先を急いで諸葛亮の霊車を南鄭城の内に安んずる。そして殿軍(しんがり)が着くのを待ち、魏延の動きをうかがう。
魏延の一軍がまっしぐらに攻めてくると聞くと、姜維は楊儀を戒めた。
「小勢とはいえ、蜀中一の勇猛。加うるに、馬岱も彼を助けておる。油断はなりませぬぞ」
楊儀の胸には、このときとばかり、思い出されたものがある。諸葛亮から臨終の折に授けられ、後日、魏延に変あるときに見よと遺言されていた、あの錦の囊(ふくろ)だった。
★諸葛亮が楊儀に錦の囊を授けたことについては、先の第309話(02)を参照。
囊の中には一書が納められていた。諸葛亮の遺筆たるは言うまでもない。封の表には、「魏延、叛を現し、その逆を伐(う)つ日までは、これを開いて秘力を散ずるなかれ」としたためてある。
楊儀と姜維は囊中(のうちゅう)の遺計が教えるところに従って、急に作戦を変更した。
すなわち閉じたる城門を開け放ち、姜維は銀鎧(ぎんがい)金鞍(きんあん)という武者ぶりに、丹槍(たんそう)の長きを横に抱え、手兵2千に鼕々(とうとう。鼓を打ち鳴らす音)と陣歌を上げさせて城外へ出る。
魏延は遥かにそれを見、同じく雷鼓して陣形を詰め寄せてきた。やがて漆黒の馬上に朱鎧緑帯し、龍牙刀を引っ提げて躍り出たる者こそ魏延だった。
味方であった間は、さまでとも思えなかったが、こうして敵に回してみると、なにさま魁偉(かいい)な猛勇に違いない。姜維も並ならぬ大敵と知って、心中に諸葛亮の霊を念じながら叫んだ。
「丞相の身もいまだ冷えぬうちに、乱を企むほどの悪党は蜀にはいないはずだ。日ごろを悔いて、自ら首を霊車に供え奉りに来たか!」
魏延は唾して軽くあしらい、こう言った。
「まず楊儀を出せ。楊儀から先に片づけ、しかる後に貴様の考え次第では、また相手にもなってやろう」
すると後陣の中から、たちまち楊儀が馬を進めて言う。
「魏延! 野望を持つのもいいが、身の程を量って持て。一斗の瓶(かめ)へ百斛(ひゃっこく)の水を入れようと考える男があれば、それは馬鹿者だろう」
さらに楊儀は続ける。
「『誰が俺を殺し得んや』と三度叫んだら、漢中はそっくり汝(なんじ)に献じてくれる。言えまい。それほどの自信は叫べまい」
魏延は何度でも言ってやろうと、馬上に反り返って大音を繰り返す。
「誰が俺を殺し得んや。誰が俺を殺し得んや。おるなら出てこいっ!」
そのとき、彼のすぐ後ろで大喝が聞こえた。
「ここにいるのを知らぬか。それっ、この通り殺してやる!」
魏延が振り向いた頭上から、戛然(かつぜん)、一閃(いっせん)の白刃が下りてくる。どうかわす間も受ける間もない。首は血煙を噴いてすっ飛んだ。ワアッと敵味方とも囃(はや)す。
血刀の滴を振りつつ、すぐに楊儀と姜維の前に寄ってきたのは馬岱。諸葛亮の生前に、馬岱は秘策を受けていた。魏延の反意は部下の本心ではなかったので、兵はみな彼とともに帰順する。
★井波『三国志演義(7)』(第104回)では、諸葛亮が馬岱に秘策を授けたことが書かれていた。しかし吉川『三国志』では、先の第309話(02)でこのことに触れておらず、いくらかわかりにくさが感じられる。
(05)成都
かくて、諸葛亮の霊車は無事に成都へ着く。四川(しせん)の奥地はすでに冬だった。蜀宮は雲低く垂れて涙恨を閉ざし、劉禅以下、文武百官が喪服して出迎えた。
諸葛亮の遺骸は漢中の定軍山に葬られる。宮中の喪儀や諸民の弔祭は大変なものだったが、定軍山の塚は故人の遺言により、極めて狭い墓域に限られた。
石棺には時服(普段着)一着を入れたのみで、当時の慣例としては質素極まるものだったという。
「身は死すともなお漢中を守り、毅魄(きはく。強くしっかりとした魂)は千載(1千年)に中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉中流域)を定めん」となす、これが諸葛亮の遺志であったに違いない。
蜀朝は諡(おくりな)して、忠武侯(ちゅうぶこう)という。
その廟中(びょうちゅう)には、後の世まで一石琴を伝えていた。軍中つねに愛弾していた故人の遺物(かたみ)である。一搔(いっそう)すれば琴韻(琴の音)清越(澄んでいて高い)。
多年の干戈(かんか)剣戟(けんげき)の裡(うち)にも、なお素朴なる洗心と雅懐(風流な心持ち)を心がけていた丞相その人の面影を偲(しの)ぶに足ると言われている。
渺茫(びょうぼう)1,700年。民国(中華民国〈ちゅうかみんこく〉の略称)今日(こんにち)の健児たちに語を寄せていう者、あにひとり定軍山上の一琴のみならんやである。
「松ニ古今ノ色無シ」
相響き相奏で、釈然と覚めきたれば、古往今来すべて一色。この輪廻(りんね)と春秋の外ではあり得ない。 (『三国志』完)
管理人「かぶらがわ」より
諸葛亮から秘策を授けられていた馬岱に、あっさりと斬られてしまう魏延。史実でも、楊儀の命を受けた馬岱が、魏延を追撃して斬り殺したとありました。
魏延は史実でも、『三国志演義』でも、報われない最期だったと思います。数々の戦功を立てて相当な地位まで昇りながらも、イマイチ溶け込めていない印象が残りました。
また魏延については、当初から人相にケチをつけられたり、いかにも謀反を起こすような人物として描かれていましたが――。無理やり悪役に仕立てられた印象も受けました。
テキストについて
『三国志』(全10巻)
吉川英治著 新潮社 新潮文庫
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記事作成にあたり参考にさせていただいた各種文献の詳細は三国志の世界を理解するために役立った本(参考文献リスト)をご覧ください。
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