【姓名】 魏延(ぎえん) 【あざな】 文長(ぶんちょう)
【原籍】 義陽郡(ぎようぐん)
【生没】 ?~234年(?歳)
【吉川】 第141話で初登場。
【演義】 第041回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・魏延伝』あり。
諸将との折り合いを欠き、最後は反逆者に仕立てられる
父母ともに不詳。数人の息子(名は不詳)がいたことがうかがえる。
211年、魏延は劉備(りゅうび)に付き従って蜀へ入り、数々の戦功を立てて牙門将軍(がもんしょうぐん)に任ぜられた。
219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)になると、政庁を成都(せいと)へ移す。そのため漢川(かんせん)の守り手として、有力な将軍を漢中(かんちゅう)に留めておく必要があった。
多くの者は張飛(ちょうひ)が起用されると考えていたが、意外にも魏延が督漢中(とくかんちゅう)・鎮遠将軍(ちんえんしょうぐん)に抜てきされ、漢中太守(かんちゅうたいしゅ)を兼ねた。
221年、劉備が帝位に即くと、魏延は鎮北将軍(ちんぼくしょうぐん)に昇進。
223年、劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぐと、魏延は都亭侯(とていこう)に封ぜられる。
227年、諸葛亮(しょかつりょう)が北伐のため漢中に進駐すると、魏延は改めて督前部(とくぜんぶ)に任ぜられ、丞相司馬(じょうしょうしば)と涼州刺史(りょうしゅうしし)を兼ねた。
230年、魏延は西方の羌中(きょうちゅう)へ進攻し、魏(ぎ)の後将軍(こうしょうぐん)の費瑶(ひよう)や雍州刺史(ようしゅうしし)の郭淮(かくわい)を陽谿(ようけい)で大破する。
この功により前軍師(ぜんぐんし)・征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)・仮節(かせつ)に昇進し、南鄭侯(なんていこう)に爵位も進んだ。
234年、諸葛亮は北谷口(ほっこくこう)に進軍し、魏延が先鋒を務めた。
諸葛亮の本営から10里の場所にいたとき、魏延は頭に角が生える夢を見たので、夢占いのできる趙直(ちょうちょく)に見解を尋ねてみる。
すると趙直はこう答えた。
「麒麟(きりん)は角を持っていますが、使うことはありません。これは戦わずして賊軍(魏軍)が自滅する兆しです」
ところが魏延のもとから退出した後、趙直はほかの者にこう言った。
「『角』という字は刀の下に用がある。頭の上に刀を用いるわけだから、これはひどい凶兆なのだ」
同年秋、諸葛亮は陣中で病に苦しみ、密かに長史(ちょうし)の楊儀(ようぎ)、司馬の費禕(ひい)、護軍(ごぐん)の姜維(きょうい)らを呼び、自分が亡くなった後の撤退方法を指示する。
これは、魏延に殿軍(しんがり)として敵の追撃を断つよう命じ、その前を姜維が進み、もし魏延が背くようなら、本軍は構わずに出発せよというものだった。
ほどなく諸葛亮は陣没したが、蜀軍は事実を伏せて喪を発せず、楊儀の命を受けた費禕が魏延の意向を探りに行く。
魏延は諸葛亮の死を聞かされたものの、丞相府の属官に柩(ひつぎ)を奉じて帰国させよと言う一方、自身は諸軍をひきいて賊を討つとの考えを伝える。
費禕が、楊儀を説得すると言って出ていき、なかなか戻ってこなかったので、魏延が様子をうかがわせたところ、すでに諸軍は撤退を開始していた。
激怒した魏延はただちに出発。楊儀らに先回りしようと図り、途中の桟道を焼き払いながら進む。
また、魏延と楊儀はともに上表を行い、それぞれ相手が反逆したと訴え、急ぎの文書が相次いで成都に届けられた。
劉禅が、侍中(じちゅう)の董允(とういん)や留府長史(りゅうふちょうし)の蔣琬(しょうえん)に諮ると、ふたりは楊儀を擁護して魏延の言い分を疑う。
先着した魏延は南谷口(なんこくこう)に布陣し、兵を遣って迎撃させたが、彼らは楊儀の先鋒の何平(かへい。王平〈おうへい〉)に諭されて四散した。
魏延は息子たちを連れて漢中へ逃走するが、楊儀の命を受けた馬岱(ばたい)に追いつかれて斬殺され、後に三族(父母・妻子・兄弟姉妹。異説もある)も処刑されたという。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、魏延は諸葛亮に付き従って出陣するたび、1万の軍勢を分けてほしいと頼んでいたそうです。
これは自ら別軍をひきいて進み、潼関(とうかん)で諸葛亮の本軍と合流し、韓信(かんしん)の故事に倣いたいとの思いからでした。
しかし諸葛亮は許さなかったので、魏延は彼を臆病者だと考えるようになり、自身の才能を十分に発揮できないことを嘆いていたのだとか。
実際、魏延は兵士の養成に長けており、その勇猛さも人並み外れていたので、当時の人々はみな彼を避けるようにし、へりくだっていたともいう。
それでも楊儀だけは、魏延に遠慮しなかったため怒りを買い、ふたりは水と火のような間柄だったということです。
さらに本伝には、魏延が(諸葛亮の陣没後、)北へ行って魏に降伏せず、南へ帰ろうとしたのは、ただ楊儀らを除きたいと考えたにすぎなかったからだとあり、これまでは彼の意見が諸将の賛同を得られなかったものの、今度こそ蜀の世論が、諸葛亮に代わる者として自分を望むに違いないと期待したからだともありました。
つまり陳寿(ちんじゅ)が書いている通り、実のところ魏延は、反逆したわけではなかったのですよね。
こういう最期を遂げることになるなら、諸葛亮の存命中に、魏延が献策していた長安(ちょうあん)への急襲を試してみる手もあったかも、と思ってしまいます。
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