霍弋(かくよく)

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【姓名】 霍弋(かくよく) 【あざな】 紹先(しょうせん)

【原籍】 南郡(なんぐん)枝江県(しこうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第119回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・霍峻伝(かくしゅんでん)』に付された「霍弋伝」あり。

蜀の滅亡時の対応を司馬昭(しばしょう)が高く評価

父は霍峻だが、母は不詳。霍彪(かくひゅう)は孫。

霍弋は劉備(りゅうび)の末年(223年ごろ)に「太子舎人(たいししゃじん)」となり、223年、劉禅(りゅうぜん)が帝位を継ぐと「謁者(えっしゃ)」に任ぜられた。

227年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が北伐のため漢中(かんちゅう)に進駐したとき、霍弋は要請を受けて「記室(きしつ)」となり、諸葛喬(しょかつきょう。諸葛亮の養子。228年没)とともに各地を巡る。

234年、諸葛亮が死去すると霍弋は「黄門侍郎(こうもんじろう)」に転じ、238年、劉璿(りゅうせん)が「皇太子(こうたいし)」に立てられた際に「太子中庶子(たいしちゅうしょし)」となった。

劉璿は馬術や射術を好み、宮中の出入りにも節度がない。そのため霍弋は古代の建前を引き、言葉を尽くして諫め、劉璿の人格を磨くうえで大いに役立ったという。

のち霍弋は「参軍(さんぐん)」としてライ降屯(らいこうとん。广+來)の「副弐都督(ふくじととく)」となり、「護軍(ごぐん)」に転じて以前と同じ任務にあたった。

このころ永昌郡(えいしょうぐん)の獠族(りょうぞく)が険阻を頼んで服従せず、たびたび被害を与えていた。そこで霍弋が「永昌太守(えいしょうのたいしゅ)」を兼ね、軍勢をひきいて討伐に向かう。霍弋は獠族の有力者を斬り、彼らの村落を破壊したので郡界は平静さを取り戻した。

霍弋は「監軍(かんぐん)・翊軍将軍(よくぐんしょうぐん)」に昇進し「建寧太守(けんねいのたいしゅ)」を兼ねた後、帰還して南郡(益州〈えきしゅう〉南部にあった諸郡?)の軍政を統括する。

263年、「安南将軍(あんなんしょうぐん)」に昇進したものの、この年、蜀は魏(ぎ)に併呑された。しかし、霍弋は巴東領軍(はとうりょうぐん)の羅憲(らけん)とともに一地方を保持し、(降伏した劉禅が魏から礼遇されていることを知ったあと)軍勢を挙げて帰順する。彼らはそのまま従来の官職に留め置かれ寵遇を受けたという。

その後の霍弋については本伝に記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く習鑿歯(しゅうさくし)の『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』には以下のような話がありました。

魏の晋王(しんおう)の司馬昭は、旧主の劉禅の処遇を確かめてから帰順した霍弋の態度を嘉(よみ)し、彼を「南中都督(なんちゅうととく)」に任じます。しかもこれは名目上の官職ではなく、実際の職務を伴うものでした。

そして264年、霍弋は呉(ご)から魏に降ろうとした呂興(りょこう)の救援に赴き、交阯(こうし。交趾)・日南(にちなん)・九真(きゅうしん)の3郡を平定。この功により「列侯(れっこう)」に封ぜられ、昇進して多くの恩賞を賜ったということです。

蜀が滅亡の危機に瀕(ひん)したとき、霍弋は保身を第一に考えず、劉禅への忠義を果たしたうえでの帰順を選びました。こうした態度には潔さが感じられ、司馬昭の高評価も納得できますね。

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