韓馥(かんふく) ※あざなは文節(ぶんせつ)、反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯

【姓名】 韓馥(かんふく) 【あざな】 文節(ぶんせつ)

【原籍】 潁川郡(えいせんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第021話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。

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反董卓(とうたく)連合軍に参加した諸侯だが、袁紹(えんしょう)に冀州牧(きしゅうぼく)の地位を奪われる

父母ともに不詳。息子がいたことがうかがえるものの、名は出てこない。

189年、董卓が実権を握ると、韓馥は御史中丞(ぎょしちゅうじょう。尚書〈しょうしょ〉とも)から冀州牧に起用された。

このころ州内には勃海太守(ぼっかいたいしゅ)の袁紹がいたが、韓馥は、彼が董卓に反抗して挙兵することを恐れ、数人の従事(じゅうじ)を遣って監視させ、動きを封じていた。

そのうち東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁(きょうぼう)が、都の三公から回付される公文書を偽造し、董卓の悪行を書き並べて義軍の決起を促す。

この公文書を受け取った韓馥は、董卓に助力すべきか、袁紹に助力すべきか迷ったが、治中従事(ちちゅうじゅうじ)の劉子恵(りゅうしけい)の進言に従い、自らは口火を切らず、他州の動きを見守ることにした。

そして、袁紹に書簡を送って董卓の悪事を述べ、彼の挙兵を認めた。

翌190年1月、こうして山東(さんとう。崤山〈こうざん〉・函谷関〈かんこくかん〉以東の地域。華山〈かざん〉以東の地域ともいう)の諸侯が反董卓を旗印に挙兵すると、韓馥も呼応。

このとき韓馥は鄴(ぎょう)に、袁紹は河内(かだい)に、張邈(ちょうばく)・劉岱(りゅうたい)・橋瑁・袁遺(えんい)は酸棗(さんそう)に、袁術(えんじゅつ)は南陽(なんよう)に、孔伷(こうちゅう)は潁川に、それぞれ駐屯していた。

しかし諸侯の足並みがそろわず、やがて連合軍は自然解散した。

翌191年春、韓馥は袁紹とともに、劉虞(りゅうぐ)を皇帝に擁立しようとしたものの、劉虞に固辞されたため断念。

このことから韓馥と袁紹が不仲になると、袁紹は幽州(ゆうしゅう)の公孫瓚(こうそんさん)に使者を遣わし、冀州を餌に、軍勢を南下させるよう誘いかけた。

これに乗った公孫瓚は、董卓討伐を名目に冀州へ侵入し、韓馥の軍勢は安平(あんぺい)で撃破された。

同年4月、董卓が長安(ちょうあん)へ入ると、袁紹は軍勢を延津(えんしん)まで戻し、韓馥のいる鄴に迫る。

韓馥が、公孫瓚と袁紹の両者の圧力を受けておびえていたところ、袁紹の使者として高幹(こうかん)や荀諶(じゅんしん)らがやってきた。韓馥は彼らの話を聞き、冀州を袁紹に譲る決意を固めた。

これに対して長史(ちょうし)の耿武(こうぶ)、別駕(べつが)の閔純(びんじゅん)、治中の李歴(りれき)が冀州の譲渡に反対。従事の趙浮(ちょうふ)と程奐(ていかん)も、兵を出して抵抗したいと願ったが、韓馥はいずれの意見も退けた。

同年7月、韓馥は官邸を出、かつてもとの中常侍(ちゅうじょうじ)の趙忠(ちょうちゅう)が住んでいた屋敷に移る。

さらに息子に冀州牧の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を託し、黎陽(れいよう)で袁紹に手渡すよう命じた。

やがて韓馥は袁紹に辞去を願い出、張邈のもとに身を寄せる。その後、張邈のところに袁紹の使者がやってきた際、相談することがあったため、使者が張邈に耳打ちをした。

ちょうど同席していた韓馥は、ふたりが自分への処置を講じていると思い込み、しばらくして席を立つと、厠(かわや)へ行き、自殺(時期は不明)してしまった。

管理人「かぶらがわ」より

韓馥は、大きな州の統治者という感じではないですよね。彼を董卓に推挙した、周毖(しゅうひ)や許靖(きょせい)にも問題がありそう。冀州牧として赴任しなければ、もっと長く生きられたでしょうから、何だか気の毒な最期でした。

とはいえ、厠から逃げるのではなく、そのまま自殺してしまうとは……。性格が慎重すぎるのではなく、何か別の問題を抱えていたのかもしれませんね。

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