橋玄(きょうげん) ※あざなは公祖(こうそ)

【姓名】 橋玄(きょうげん) 【あざな】 公祖(こうそ)

【原籍】 梁国(りょうこく)睢陽県(すいようけん)

【生没】 110~184年(75歳)

【吉川】 第023話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。

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三公すべてを歴任して清廉さをたたえられる、若き日の曹操(そうそう)を高く評価した

父母ともに不詳。

170年9月、橋玄は大鴻臚(だいこうろ)から司空(しくう)に任ぜられた。

翌171年3月、司徒(しと)に転じたものの、7月には罷免される。

178年12月、光禄大夫(こうろくたいふ)から太尉(たいい)に任ぜられる。しかし翌179年3月には、病のため罷免される。

その後、太中大夫(たいちゅうたいふ)として療養生活を送り、184年に死去。このとき75歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』には橋玄の伝が立てられていないため、その事績もごく断片的なものしか拾えませんでした。

一方で范曄(はんよう)の『後漢書(ごかんじょ)』には、彼の伝が立てられており、『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 潮書房光人社)などを見ると、そちらにはもう少し具体的な記事があるようです。

『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張璠(ちょうはん)の『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』によると、「橋玄は内外の職を歴任し、剛毅果断によって評判を取った」ということです。

「一方で士人に対しては謙虚な態度でへりくだり、高官や親戚であるなど、個人的な関係で動かされることがなかった」とも。

「そして橋玄が亡くなると、その家は貧しくて財産もほとんどなく、柩(ひつぎ)を安置する場所さえなかった。当時の人はこの様子を見て、名臣としてたたえた」のだと。

また「武帝紀」とその裴松之注には、橋玄が何顒(かぎょう)とともに、まだ無名だったころの曹操を高く評価した話が出てきます。

橋玄から許子将(きょししょう。許劭〈きょしょう〉)を紹介されたことが、曹操が世に出るきっかけになっていますし、こうしたことからも橋玄は、その後の歴史に大きな影響を与えたと言えるでしょう。

曹操も恩を忘れることはなく、202年に浚儀(しゅんぎ)に赴き、睢陽渠(すいようきょ。運河の名)を改修させた際、使者を遣って太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)を捧げ、橋玄を祭っています。

それからずっと後の225年にも、曹操の息子の曹丕(そうひ)が梁を訪れた際に、やはり使者を遣って太牢を捧げ、橋玄を祭っています。曹操や曹丕には、こういう一面もあったのですね。

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