【姓名】 士壱(しいつ) 【あざな】 ?
【原籍】 蒼梧郡(そうごぐん)広信県(こうしんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・士燮伝(ししょうでん)』に付された「士壱伝」あり。
士燮の弟、呉(ご)の孫権(そんけん)に降ったものの、結局は刑死
父は士賜(しし)だが、母は不詳。士燮は兄で、士䵋(しい)と士武(しぶ)は弟。士匡(しきょう)という息子がいた。
士壱は、もともと郡の督郵(とくゆう)を務めていた。
交州刺史(こうしゅうしし)の丁宮(ていきゅう)が都に召し還されることになったとき、士壱は心を込めて送別した。感激した丁宮は、別れに臨んで言った。
「もし私が、いずれ三公の職を務めるようになったら、きっとあなたを召し寄せよう」
188年8月、丁宮は司徒(しと)に昇り、先の言葉通りに士壱を召し寄せた。
ところが、士壱が都に着いたとき、すでに丁宮は司徒を免ぜられており(189年7月のこと)、189年9月から黄琬(こうえん)が代わって務めていた。それでも、黄琬も士壱を礼遇した。
董卓(とうたく)が乱を起こし、190年2月に長安(ちょうあん)への遷都を強行すると、士壱は官を捨てて郷里へ帰った。
交州刺史の朱符(しゅふ)が異民族の反乱で殺害されると、州郡は乱れて収拾がつかなくなった。
そこで士燮が上表し、士壱を合浦太守(ごうほたいしゅ)に、士䵋を九真太守(きゅうしんたいしゅ)に、士武を南海太守(なんかいたいしゅ)に、それぞれ任ずるよう願い出て認められた。
士氏兄弟はそれぞれ太守を務め、州の実力者となった。しかも、治めた州郡が都から遠く離れていたため、並ぶ者のない権勢を振るい、独尊の地位を保つことができた。
210年、孫権が歩騭(ほしつ)を交州刺史として赴任させた。歩騭が着任すると、士壱は士燮ら兄弟とともに支配下に入った。
建安(けんあん。196~220年)の末年、士燮が、息子の士廞(しきん)を人質として孫権のもとへ遣ったところ、孫権は士燮を武昌太守(ぶしょうたいしゅ)に任じ、士燮や士壱の息子で南方に留まっている者たちを、みな中郎将(ちゅうろうしょう)に任じた。
士燮は益州(えきしゅう)の豪族の雍闓(ようかい)らに働きかけ、郡民をまとめて孫権に味方させた。
こうしたことからますます孫権は士燮を評価し、衛将軍(えいしょうぐん)に昇進させ、龍編侯(りょうへんこう)に封じた。さらに士壱も偏将軍(へんしょうぐん)に任じ、都郷侯(ときょうこう)に封じた。
226年に士燮が死去すると、息子の士徽(しき。士壱の甥)が跡を継いだ。
孫権は、交阯(こうし。交趾)が遠く離れた地にあることから、合浦以北を分割して広州(こうしゅう)とし、呂岱(りょたい)を広州刺史(こうしゅうしし)に起用した。
そして交阯以南は交州とし、戴良(たいりょう)を交州刺史に起用した。さらに陳時(ちんじ)を遣わし、士燮の後任の交阯太守に充てようとした。
士徽は交阯太守を称して抵抗したものの、呂岱の言葉に騙(だま)される形で、兄弟ともども処刑されてしまった。その後、士壱は弟の士䵋や息子の士匡とともに出頭し、孫権から死罪を許された。
士壱らは、士燮が人質に差し出していた息子の士廞(士壱の甥)とともに、みな官位を剝奪され、庶民の身分に貶(おと)された。
その数年後、士壱と士䵋は法に触れて処刑された。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、黄琬が董卓といがみ合っていたとき、士壱は心を尽くして黄琬のために働き、高い評判を得たということです。
董卓は彼を憎み、「司徒掾(しとえん)の士壱は官に任用してはならない」との教(役所に送る公式の布告)を出しました。
この教によって士壱は何年も昇進できず、そうこうしているうちに董卓が関中(かんちゅう)へ遷都したので、官を捨てて故郷へ帰ったのだと。
ですが、この記事にはいくらか引っかかるところがあります。
黄琬が司徒に任ぜられたのは189年9月のこと。そして、董卓の長安遷都は190年2月(ただし、董卓自身の長安入りは翌191年4月)のこと。
士壱が洛陽(らくよう)到着直後に、黄琬の司徒掾になったのだとしても……。それから黄琬のために働いて高い評判を得、これを憎んだ董卓の教が出たのであれば、そのことで士壱が何年も昇進しなかったのはおかしい気がします。
帰郷した後の士壱には目立った事績がないようですけど、死罪を許された数年後、法に触れたという理由で処刑ですか……。孫権も露骨な手段で士氏の族滅に動きましたね。
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