張緝(ちょうしゅう)

【姓名】 張緝(ちょうしゅう) 【あざな】 敬仲(けいちゅう)

【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)

【生没】 ?~254年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。

司馬師(しばし)を排斥する計画に加担して刑死

父は張既(ちょうき)だが、母は不詳。張翁帰(ちょうおうき)は弟。張邈(ちょうばく。張藐)という息子に加え、曹芳(そうほう)の「皇后(こうごう)」に立てられた娘がいた。

223年、張緝は張既が死去したためその跡を継ぎ、「西郷侯(せいきょうこう)」に封ぜられた。そして曹叡(そうえい)の太和(たいわ)年間(227~233年)には「温県令(おんけんのれい)」となり、政治の才能を評価される。

228年?、蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が(祁山〈きざん〉へ)出撃した際、張緝の意見が中書令(ちゅうしょれい)の孫資(そんし)に認められ、「騎都尉(きとい)」に任ぜられた。

ここは、どの時点の「諸葛亮の出撃」を指しているのかイマイチわからなかった。

230年、張緝は大司馬(だいしば)の曹真(そうしん)による蜀討伐に従軍。のち中央へ入って「尚書郎(しょうしょろう)」となり、曹叡の目に留まる。やがて「東莞太守(とうかんのたいしゅ)」に昇進し数千の兵を指揮するようになった。

252年、娘の張氏が曹芳の「皇后」に立てられると、張緝は召し還されて「光禄大夫(こうろくたいふ)」に任ぜられ、「特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)」となる。彼の妻の向(きょう)も「安城郷君(あんじょうきょうくん)」に封ぜられた。

254年、張緝は中書令の李豊(りほう)らと結託し、太常(たいじょう)の夏侯玄(かこうげん)を「大将軍(だいしょうぐん)」に据え、現任の司馬師を排除しようと謀ったものの、この計画が発覚。張緝らは三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)皆殺しとなり、娘の張氏も廃位されたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・張既伝)とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

また『魏略』には、張緝と李豊の家は代々にわたる親しい関係で、互いの住まいも近かったとあり、李豊が急用で出かけている場合には、息子の張藐が(李豊のもとに)出向いて相談することもあったそうです。

張緝の息子らは父に連座し処刑されましたが、孫の張殷(ちょういん)は晋(しん)の永興(えいこう)年間(304~305年)に「梁州刺史(りょうしゅうのしし)」になったという。

ちなみに李豊の息子である李韜(りとう)の妻は、曹叡の娘(斉長公主〈せいちょうこうしゅ〉)でした。

張緝は「光禄大夫」に任ぜられ「東莞太守」の職務を離れた後、都の私邸でやることもなくイライラしていたそうなので、こうした状況も彼が司馬師の排斥計画に加担した一因になったと言えそうです。

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