孫魯班(そんろはん) ※あざなは大虎(たいこ)、全公主(ぜんこうしゅ)

【姓名】 孫魯班(そんろはん) 【あざな】 大虎(たいこ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の娘、全公主(ぜんこうしゅ)

父は孫権、母は歩氏(ほし)。

孫登(そんとう)・孫慮(そんりょ)・孫和(そんか)・孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は兄弟。同母妹の孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ妹もいた。

孫魯班は初め周瑜(しゅうゆ)の息子の周循(しゅうじゅん)に嫁いだが、周循が若くして亡くなったため全琮(ぜんそう)と再婚した。このことから全公主とも呼ばれる。

全琮の息子として全緒(ぜんしょ)・全寄(ぜんき)・全懌(ぜんえき)・全呉(ぜんご)の名が出てくるが、末子の全呉の母が孫魯班であること以外はイマイチはっきりしない。

238年に歩氏が亡くなった後、241年5月には皇太子の孫登が薨去(こうきょ)した。

翌242年1月、孫和が皇太子に立てられ、孫権は孫和の母の王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉。琅邪〈ろうや〉の人)を皇后に立てようとした。

しかし、孫魯班は日ごろから王氏を憎んでおり、孫権に少しずつ彼女の悪口を吹き込んでいた。

孫権が重い病にかかったとき、孫魯班は「王氏がうれしそうな顔をしておりました」と告げたので、孫権は王氏にひどくあたるようになった。その後、王氏は憂いのあまり亡くなってしまう。

250年に孫和が故鄣(こしょう)へ幽閉され、同年11月には孫亮が皇太子に立てられた。

252年4月、孫権が崩御(ほうぎょ)し、孫亮が帝位を継ぐ。

こうして建興(けんこう)年間(252~253年)に孫峻(そんしゅん)が政治をほしいままにすると、帝族はみな自分の身に不安を覚えた。

ただ、全尚(ぜんしょう。全琮の一族)の妻が孫峻の姉だったことから、全公主(孫魯班)だけは安泰だった。

もともと孫和が皇太子だったとき、全公主はその母である(琅邪の)王氏を讒言(ざんげん)し、孫和を廃して魯王(ろおう)の孫霸を立てたいと考えていた。

ところが、この考えに朱公主(しゅこうしゅ。孫魯育)が同意しなかったため、姉妹の間に仲たがいが生じた。

翌253年、全公主は孫和の母(琅邪の王夫人)と仲が良くなかったことから、孫峻を唆して孫和を新都郡(しんとぐん)に強制移住させたうえ、さらに使者を遣って孫和に自殺を命じた。このとき孫和の正室だった張氏(ちょうし)も一緒に自殺した。

五鳳(ごほう)年間(254~256年)には孫儀(そんぎ)が孫峻の暗殺を計ったものの、事が発覚して誅殺された。

全公主はこの事件にかこつけ、「朱公主も孫儀の企てに加わっていた」と上言する。これを受けて、孫峻は無実だった朱公主も殺害した。

256年に孫峻が死去すると、実権は従弟の孫綝(そんりん)に移った。

この太平(たいへい)年間(256~258年)になって、孫亮は朱公主が全公主のために殺害されたことを知り、「なぜ朱公主は死ぬことになったのか?」と全公主に尋ねた。

全公主は怖くなって言った。

「私は本当のところをよく知らず、すべては朱拠(しゅきょ)のふたりの息子である、朱熊(しゅゆう)と朱損(しゅそん)が申したことなのです」

それを聞いた孫亮は朱熊と朱損を殺した。朱損の妻が孫綝の妹だったことから、ますます孫綝は孫亮を嫌うようになった。

そして孫綝は、258年9月に孫亮を廃して会稽王(かいけいおう)に貶(おと)し、孫休を帝位に迎えた。

孫綝は、孫亮の皇后だった全氏の父である全尚を零陵(れいりょう)へ強制移住させた。また、朱公主の殺害を企てたとして、全公主を豫章(よしょう)へ配流した。

管理人「かぶらがわ」より

孫魯班が豫章へ配流された後のことはわかりませんでした。

孫権の寵愛をいいことに讒言を繰り返し、皇太子の廃立にまで影響を与えた孫魯班。自分と意見が異なるというだけで、同母妹まで死に追いやってしまうところがひどい。

さらに『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫峻伝)には、孫峻が孫魯班と密通していたという記事までありました。こういう娘の言うことを何でも聞き入れてしまうのは、孫権のマイナスの一面ですね……。

もし前夫の周循が早く亡くなっていなければ、呉の帝系が変わっていたのでしょうか? 数多くの人物が登場する『三国志』の中でも、孫魯班は特殊な女性だと思います。

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