孫和(そんか) ※あざなは子孝(しこう)、呉(ご)の文皇帝(ぶんこうてい)

【姓名】 孫和(そんか) 【あざな】 子孝(しこう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 224~253年(30歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫和伝』あり。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の息子、南陽王(なんようおう)、文皇帝(ぶんこうてい)

父は孫権、母は王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉。琅邪〈ろうや〉の人)。

孫登(そんとう)と孫慮(そんりょ)は兄で、孫霸(そんは)・孫奮(そんふん)・孫休(そんきゅう)・孫亮(そんりょう)は弟。孫魯班(そんろはん)と孫魯育(そんろいく)に加え、劉纂(りゅうさん)に嫁いだ姉妹もいた。

跡を継いだ孫晧(そんこう)のほか、孫徳(そんとく)・孫謙(そんけん)・孫俊(そんしゅん)という息子がいた。

母の王氏が孫権に寵愛されたため、孫和も幼いころからかわいがられた。

237年、14歳の孫和の下に、直属の官僚機構と護衛兵が置かれる。また、中書令(ちゅうしょれい)の闞沢(かんたく)が孫権の命を受けて、孫和に書物や稽古事を教えた。

孫和は学問を好んだうえ、才能のある人物たちにも丁重に応対したので人々から盛んな称賛を受けた。

241年5月、兄で皇太子の孫登が薨去(こうきょ)する。

翌242年1月、19歳の孫和が代わって皇太子に立てられた。

闞沢が太傅(たいふ。太子太傅)に、薛綜(せつそう)が少傅(しょうふ。太子少傅)に、それぞれ任ぜられ、蔡穎(さいえい)・張純(ちょうじゅん)・封俌(ほうふ)・厳維(げんい)らが側近として仕えることになった。

このころ役人が様々な提案を箇条書きにして、その可否を尋ねる上申をすることが多かった。孫和は、そういった上申の多くが悪巧みや誇大な妄想を抱く者たちによって行われ、事にかこつけて自分の要求を実現しようとしているだけだとした。

こうしたものは謀反の心を起こさせる元になるとも考え、上表して、このような上申を禁ずるべきとの意見を述べた。

後に母の王氏と孫魯班(全公主〈ぜんこうしゅ〉)との仲がしっくりいかなくなる。

あるとき孫権が病床に就き、孫和が代わって宗廟(そうびょう)での祭祀(さいし)を執り行ったことがあった。

孫和の妃(きさき)である張氏(ちょうし)の叔父の張休(ちょうきゅう)は、たまたま宗廟の近くに住んでいたので孫和を屋敷へ招いた。

孫魯班は人を遣って様子を探らせると、「孫和は宗廟に籠もらず、妃の実家へ行って謀議を凝らしております」と上言。さらに「王夫人(王氏)は陛下が病床に就いたのを見て、うれしそうな顔をしておりました」とも上言した。

孫権は孫魯班の告げ口を聞いて腹を立て、王氏の憂死を招く。孫和への寵愛も以前ほどではなくなり、皇太子の地位を追われる心配をしなくてはならなくなった。

その一方、弟で魯王(ろおう)の孫霸は、自分が孫和に取って代わろうという野望をたくましくした。

陸遜(りくそん)・呉粲(ごさん)・顧譚(こたん)らは、道理から言っても嫡子と庶子との区別を崩してはならないと、しばしば孫権に上陳した。

ところが全寄(ぜんき)と楊竺(ようじく)が孫霸を守り立て、孫和側の重臣の讒言(ざんげん)を毎日のように行った。その結果、呉粲は投獄のうえ誅殺され、顧譚は交州(こうしゅう)へ流された。

孫権は孫和を廃する決心がつかないまま数年を過ごしたが、やがて彼を幽閉した。

すると驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の朱拠(しゅきょ)と尚書僕射(しょうしょぼくや)の屈晃(くつこう)が部将や役人とともに、顔に泥を塗って自分の身を縄で縛り、連日、宮門の前で孫和の赦免を求めた。

孫権は、この様子を白爵観(はくしゃくかん)から見ていたが、ひどく不快な気持ちになり、朱拠や屈晃らに軽率なことをするなと戒めた。

孫権が孫和を廃して新たに孫亮を立てようとすると、無難督(ぶなんとく)の陳正(ちんせい)と五営督(ごえいとく)の陳象(ちんしょう)が上書し、朱拠や屈晃も諫言を繰り返した。

孫権は激怒して陳正と陳象を一族皆殺しとし、朱拠と屈晃には殿中で棒叩き100回の罰を与えた。

こうして250年に孫和は故鄣(こしょう)へ幽閉されることになり、同年11月に弟の孫亮が皇太子に立てられた。

このことを諫止しようとして罰を受け、誅殺されたり放逐されたりした者は数十人に上る。呉の人々はみな心中に不満を抱いたという。

252年1月、孫和は南陽王に封ぜられ、長沙(ちょうさ)へ追いやられた。

同年4月、孫権が崩御(ほうぎょ)して諸葛恪(しょかつかく)が実権を握った。諸葛恪は、孫和の妃である張氏の舅(おじ)にあたった。

妃の張氏は黄門(こうもん)の陳遷(ちんせん)を建業(けんぎょう)へ遣わし、皇后に上疏させるとともに、諸葛恪にも挨拶させた。

諸葛恪は、挨拶を済ませて退出する陳遷に言った。

「王妃さまにお伝えください。まもなく彼らより有利な立場にお立ていたしますと」

この諸葛恪の言葉がいささか世間に漏れた。加えて諸葛恪には武昌(ぶしょう)へ遷都したいとの考えがあり、すでに宮殿を整備させていたことから、呉の人々は、諸葛恪が孫和を武昌へ迎えようとしているのだとうわさした。

翌253年10月、孫亮が孫峻(そんしゅん)と計り、諸葛恪を誅殺する。

孫峻は、生前の諸葛恪の言動に言いがかりをつけ、孫和から南陽王の璽綬(じじゅ)を取り上げて新都(しんと)へ強制移住させたうえ、ほどなく使者を遣って自殺を命じた。

孫和が張氏に別れを告げると、張氏は自分だけ生き残ることはできないと言い、ともに自殺した。このとき孫和は30歳だった。国中の者がふたりの死を悲しんだという。

258年、孫亮が孫綝(そんりん)によって帝位を追われると、(孫和の)弟の孫休が帝位に即いた。

孫休は、孫和の息子の孫晧を烏程侯(うていこう)に封じ、幽閉していた新都から烏程へ移住させた。同じく孫和の息子の孫徳は銭唐侯(せんとうこう)に、孫謙は永安侯(えいあんこう)に、それぞれ封ぜられ、孫俊は騎都尉(きとい)に任ぜられた。

264年7月、孫休が崩御し、孫晧が帝位に即くことになった。

同年、孫晧は孫和に文皇帝の諡号(しごう)を追贈し、烏程に築いた明陵(めいりょう)に改葬。200戸からなる園邑(えんゆう。墓守のための村)を置き、令(れい)と丞(じょう)を任命して守護に充てた。

266年10月、孫晧は、呉郡と丹楊郡から9つの県を分けて呉興郡(ごこうぐん)を新設する。郡の役所を烏程に置くと太守(たいしゅ)を任命し、明陵で季節ごとの祭祀を執り行わせた。

担当官吏から上奏があり、都に孫和の廟(びょう)を建てるべきだと述べた。

翌267年7月、孫晧は守大匠(しゅたいしょう。大匠代行)の薛珝(せつく)に命じ、廟の正殿と奥殿を造営させた。そして、この廟を清廟(せいびょう)と名付けた。

同年12月、守丞相(しゅじょうしょう。丞相代行)の孟仁(もうじん)と太常(たいじょう)の姚信(ようしん)らを遣わし、官吏や近衛の歩騎2千をそろえて天子(てんし)の乗り物も用意したうえ、東方の明陵から孫和の魂を迎えて都の清廟へ移すことになった。

出発にあたって孫晧は孟仁を引見し、前庭まで出て丁重な礼をもって見送る。

孫和の魂が到着した際には丞相の陸凱(りくかい)に命じ、牛・羊・豕(ブタ)の生け贄(にえ)を供えて郊外で祭祀を執り行わせた。

孫晧自身も金城(きんじょう)の近くで野営し、翌日には東門の外で、孫和の魂を乗せた乗り物に向かって拝礼した。

さらに翌日、清廟でお供えと祭祀を執り行い、孫晧はむせび泣き、悲しみに胸を詰まらせた。7日間に3度の祭祀が執り行われ、倡技(しょうぎ)が昼夜の別なく歌舞を披露し、孫和の霊を楽しませた。

担当官吏から、たびたび祭祀を執り行わないよう上奏があったため、孫晧は連日にわたる祭祀を取りやめた。

管理人「かぶらがわ」より

孫休の生前の事績に加え、その死後の孫晧の時代における関連記事も拾ってみました。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、「孫和は幼いころから頭が良く、孫権に特にかわいがられていた」ということです。

「いつも孫権は孫和をそばに置き、衣服などの下賜品や待遇は、ほかの息子たちと比べられないほど立派なものだった」とも。

また「孫和は文芸を好む一方、騎馬や弓にも巧み。師の下で学問に励み、優れた見識と鋭敏な頭脳を備え、師傅(しふ。教育と補佐にあたる守り役)を敬い、才能のある人物に目をかけた」のだと。

さらに本伝には、孫和の博奕(ばくえき。ばくち)に対する考えがうかがえる、以下のような記事もありました。

「孫和は宴席で博奕が話題になったとき、属官を前にしてこのように言った」

「『博奕は仕事の妨げとなり、時間を浪費するばかりで何の役にも立たない。頭を使って心を疲れさせるが、そこから何かが生み出されるわけでもない』」

「『天地は永久に存在し続けるとはいえ、そこで生きる人の一生というのは、白い若駒が壁の隙間を駆け抜けるほどの短い時間にすぎない、との例えもある。人生というのは、ひとたび暮れ方に向かえば、二度と花開くことはない』」

「『人たる者の情として、気楽な楽しみ事もなくてはならないが、それには宴や琴書(音楽や読書)、弓術や馬術などがふさわしい。どうして博奕以外に楽しみ事がないなどと言えよう』」

娯楽の必要性を認めながらも、博奕には厳しい孫和。適度に楽しむぐらいならいいのでは、とも思いますが、当時はそれほど博奕好きが多く、弊害も目立っていたのでしょう。

孫和は、このとき宴に加わった8人にそれぞれ持論を著すよう言い、自身の議論を補強せよと命じています。後に中庶子(ちゅうしょし)の韋曜(韋昭)から上奏されたものが「博奕論」だったのだとか。

孫和と孫霸との後継者争いを招いた原因は、父の孫権の態度にありました。

本伝の裴松之注に引く殷基(いんき)の『通語(つうご)』によると、242年1月、孫権は孫和を皇太子に立てると、同年8月には孫霸を魯王に封じます。当初、孫和と孫霸は同じ宮殿で暮らしていて、待遇にも区別がありませんでした。

呉の重臣たちは、皇太子と諸王では身分の違いがあり、待遇にも区別をつけるべきだと進言します。

そこで孫権はふたりの宮殿を別にし、属官も分けて出仕させることにしましたが、これが仲たがいの始まりに――。

まずは側近や賓客が二派に分かれ、お互いを敵視し合うようになり、こうした派閥抗争が重臣にまで広がっていきました。

丞相の陸遜、大将軍の諸葛恪、太常の顧譚、驃騎将軍の朱拠、会稽太守(かいけいたいしゅ)の滕胤(とういん)、大都督(だいととく)の施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)、尚書(しょうしょ)の丁密(ていみつ)らは礼に従い、皇太子の孫和を支持しましたが……。

驃騎将軍(朱拠とカブってますけど)の歩騭(ほしつ)、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)の呂岱(りょたい)、大司馬(だいしば)の全琮(ぜんそう)、左将軍(さしょうぐん)の呂拠(りょきょ)、中書令の孫弘(そんこう)らは魯王の孫霸を支持したのです。

その結果、中央だけでなく地方の官僚・将軍・重臣までが二派に分かれてしまい、国を二分した争いに拡大しました。

孫権も事態を憂慮し、孫峻にこう伝えます。

「息子たちが仲良くせず、臣下も二派に割れている。このままでは袁紹(えんしょう)一族のような末路をたどり、天下の笑い者となるだろう。ふたりのうちどちらかが帝位を継げば、必ず混乱が起こるだろう」

こうしたことから、跡継ぎを代えようという考えが持ち上がってきたのだと。

この『通語』の記事に裴松之が意見を述べており、「袁紹と劉表(りゅうひょう)は、それぞれ息子の袁尚(えんしょう)と劉琮(りゅうそう)が聡明だと考え、もともと跡を継がせようとの意思があった」と指摘。

「孫権は一度は孫和を立てながら、後に孫霸を寵愛したことで、みすみす混乱の原因を作った。この点で袁紹や劉表と同じではない」との見解。

そして「孫権の愚かで道理にもとるところは、袁紹や劉表と比べても、よりひどいものである」と断じたうえ、孫霸に付いた歩騭・呂岱・全琮らを厳しく非難しています。

最後に、本伝の裴松之注に引く韋昭(韋曜)の『呉書』に次のような記事もありました。

「孫権は病が重くなると、孫和と孫霸との争いの真相がいくらかわかるようになってきた」

「そこで孫和を召し還し、もう一度、皇太子に立てたいと考えるようになった。しかし、全公主(孫魯班)・孫峻・孫弘らが強く反対したため沙汰やみになってしまった」

優秀な息子たちがいたのに、晩年の孫権はどうしたのでしょう? 孫和も孫霸も、父に振り回された感じがします。

なお、孫和の正室だった張氏はともに自殺しましたが、側室だった何氏(かし)は殉死せず、孫晧をはじめとする孫和の息子たちを養育したということでした。

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