【姓名】 蔣済(しょうせい) 【あざな】 子通(しとう)
【原籍】 楚国(そこく)平阿県(へいあけん)
【生没】 ?~249年(?歳)
【吉川】 第231話で初登場。
【演義】 第075回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・蔣済伝』あり。
文武の才を兼ね備えた直諫の士、諡号(しごう)は景侯(けいこう)
父母ともに不詳。息子の蔣秀(しょうしゅう)は跡継ぎで、ほかにも息子がいたことがうかがえる。
蔣済は出仕して、九江郡(きゅうこうぐん)の計吏(けいり)や丹楊太守(たんようたいしゅ)、揚州(ようしゅう)の別駕(べつが)を務めた。
208年、孫権(そんけん)が合肥(ごうひ)を包囲した際、曹操(そうそう)の大軍は荊州(けいしゅう)の劉備(りゅうび)を討伐中で、疫病の流行に苦しんでいた。
このため曹操は張喜(ちょうき。張憙)に1千騎をひきいさせ、通過する汝南(じょなん)の兵も加えて合肥の包囲を解かせようとしたが、これらの兵の多くも病にかかる。
そこで蔣済は一計を案じ、歩騎4万が雩婁(うろう)に到着したとする張喜の手紙が届いたと偽り、主簿(しゅぼ)を遣って張喜を出迎えさせよと、内密に揚州刺史(ようしゅうしし)の温恢(おんかい)に伝えようとした。
蔣済の手紙は3組の使者によって城内の守備隊長に届けられることになったが、ひと組だけ城へ入ることができ、あとのふた組は孫権軍に捕らえられてしまう。
孫権は手紙を読んで敵の援軍が着いたと思い込み、急に包囲の軍営を焼き払って撤退。おかげで合肥は無事だった。
翌209年、蔣済が使者として譙(しょう)へ赴いた際、曹操は淮南(わいなん)の民を移住させたいと言い、彼の意見を求める。
蔣済は「民は郷里を懐かしむものですから、移住を喜びません」と反対したが、曹操は聞き入れなかった。
その結果、長江(ちょうこう)や淮水(わいすい)流域に住む10余万の人々は、みなあわてて呉(ご)へ逃げ込んだ。
後に蔣済が使者として鄴(ぎょう)へ赴いた際、曹操は出迎えたうえ、彼に会うと大笑いして言った。
「移住の件は賊(孫権)を避けさせようと考えたものだったが、かえって向こうへ駆り立ててしまったな」
その後、蔣済は謀反を企む首謀者だと誣告(ぶこく)する民が出る。
しかし曹操は、きっと蔣済は巻き添えになっただけだと言い、裁判の担当官吏を急き立てて釈放させた。
蔣済は丞相主簿(じょうしょうしゅぼ)・西曹属(せいそうぞく)に任ぜられる。
★曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。
219年、劉備配下の関羽(かんう)が樊(はん)と襄陽(じょうよう)を包囲した際、曹操は、献帝(けんてい)を置いている許(きょ)と近かったことから遷都を考えた。
蔣済は司馬懿(しばい)とともに、孫権へ使いを遣って関羽の背後を襲うよう勧めたうえ、長江以南の地を割き君主に取り立ててやるのがよいと進言。
曹操が進言を容れたところ、このことを聞いた孫権は軍勢をひきいて西へ向かい、公安(こうあん)や江陵(こうりょう)を攻めて関羽を捕らえた。
翌220年2月、曹丕(そうひ)が魏王(ぎおう)を継ぐと、蔣済は相国長史(しょうこくちょうし)に転ずる。
同年10月、曹丕が帝位に即くと、蔣済は地方へ出て東中郎将(とうちゅうろうしょう)となった。
やがて「万機論(ばんきろん。政治についての議論)」を献じて曹丕の称賛を得ると、散騎常侍(さんきじょうじ)として中央へ戻る。
このころ曹丕は征南将軍(せいなんしょうぐん)の夏侯尚(かこうしょう)に詔(みことのり)を下し、部下の賞罰を決める権限を与えていた。
夏侯尚にその詔を見せられた蔣済は、曹丕から天下の風俗や教化の現状について問われた際、こう答える。
「ほかに善いことはなく、ただ亡国の言葉があるだけでございます」
怒った曹丕が理由を問いただすと、蔣済は『尚書(しょうしょ)』を引き、賞罰は天子(てんし)の権限に属するもので、人臣には許されないものだと諫めた。
これを聞くと曹丕の気持ちもほぐれ、夏侯尚に下した詔を取り消した。
222年、曹丕が大司馬(だいしば)の曹仁(そうじん)らに孫権の討伐を命ずる。蔣済も別軍として羨谿(せんけい。羨渓)を攻めた。
翌223年3月、蔣済は、濡須(じゅしゅ)の中州へ兵を入れるという曹仁を諫めたが聞かれず。ほどなく曹仁は退却に追い込まれ、この月のうちに死去する。
蔣済は再び東中郎将に任ぜられ、曹仁に代わって兵を指揮した。しばらくして中央へ召し還され、尚書に任ぜられる。
225年、曹丕が広陵(こうりょう)に行幸した際、蔣済は水路の通行が困難であると上奏し、「三州論(さんしゅうろん)」を献じて諫めたものの容れられなかった。その結果、味方の数千隻の軍船が渋滞して進めなくなる。
このとき兵を留め置き、屯田をしたいと言う者がいた。
すると蔣済は、東方は湖水に近く、北方も淮水に面していると指摘。水勢が盛んな時期には賊が侵入しやすく、落ち着いて屯田に取り組むことはできないと主張する。
曹丕は蔣済の意見に従い、ただちに出発。精湖(せいこ)まで戻ると水も次第に少なくなってきたので、蔣済にすべての軍船を預けた。
蔣済は改めて4、5本の水路を作らせ、数百里に点在していた軍船を集める。
そして、あらかじめ堤を築いて湖水をせき止めておき、この堰(せき)を一度に開くことで、つないだ軍船を淮水へ入れた。
曹丕は洛陽(らくよう)へ帰った後、蔣済に言った。
「事情を理解していないのがいけなかった。朕は山陽湖(さんようこ)で軍船の半数を焼き捨てる決心をしたが、卿(きみ)は残ってそれらの軍船を送り出し、ほぼ朕と同時に譙へ着いた」
「卿の上言を聞くたび、朕の心に染み入ってくる。今後は討賊の計画についても、よく考えたうえで意見を聴かせてもらいたい」
翌226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、蔣済は関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。後に中護軍(ちゅうごぐん)に昇進した。
このころ中書監(ちゅうしょかん)の劉放(りゅうほう)と中書令(ちゅうしょれい)の孫資(そんし)が専権の任にあると言われ、権力を握っていた。
蔣済は上奏し、いま外の話題ではいつも中書省のふたりの名が出るとして、公正な聴聞や観察をなさり、もし道理に合致しない政治を行い、使用に堪えない者がおれば、それを改められますようにと述べた。
曹叡は詔を下してたたえる。
「鯁骨(こうこつ。権力に対して自分の態度を変えない様子。硬骨)の臣は君主が頼りとする者である」
「蔣済は文武の才を兼ね備え、忠節を尽くして職務に励んでいる。また、国や軍に大事があるたび、いつも上奏して忠言を述べてくれ、朕は立派だと思う」
さらに蔣済を護軍将軍(ごぐんしょうぐん)に昇進させ、散騎常侍の官位を加えた。
景初(けいしょ)年間(237~239年)になると、外は征伐に明け暮れ、内は宮殿造営に国力を費やしたため、連れ合いを亡くす男女が多く、穀物もよく実らなかった。
蔣済は上奏し、いま急務とすることは、民を使役しすぎて疲弊させないことだと述べる。また、歓楽にふければ心身に害があるとして、後宮に置く女官を厳選するよう勧めた。
曹叡は詔を下し、「護軍(蔣済)がいなければ、朕はこのような言葉を聴けないことだろう」と評した。
239年、曹芳(そうほう)が帝位を継ぐと、蔣済は領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)に転じ、昌陵亭侯(しょうりょうていこう)に爵位が進む。
242年、太尉(たいい)に昇進。
249年1月、太傅(たいふ)の司馬懿がクーデターを起こす(正始〈せいし〉の政変)と、蔣済とともに洛水(らくすい)の浮橋に駐留して曹爽(そうそう)らを誅滅する。
蔣済は都郷侯(ときょうこう)に爵位が進み、封邑(ほうゆう)は700戸となる。この際、自分には功がないとして恩賞を固辞したものの、曹芳は許可しなかった。
同年4月、蔣済が死去すると景侯と諡(おくりな)され、息子の蔣秀が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』には、以下のようにあります。
蔣済は司馬懿とともに洛水の浮橋に駐留したとき、曹爽へ手紙を送り、「ただ免職にするだけだ」という司馬懿の考えを伝えた。
ところが曹爽は三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)を誅滅されてしまったため、蔣済は、信義にもとることをしたと気に病んで亡くなった。
なお、208年の赤壁(せきへき)の戦いの前後については、蔣済の官職の変遷がつかみにくい記事もありました。
魏の4代(曹操・曹丕・曹叡・曹芳)に仕えた蔣済でしたが、言いにくいことを進言する態度を貫いたのは見事なもの。
しかもそれらの進言が的を射ていたので、主君から遠ざけられることがなかったのでしょうね。
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