劉曄(りゅうよう)

【姓名】 劉曄(りゅうよう) 【あざな】 子揚(しよう)

【原籍】 淮南郡(わいなんぐん)成悳県(せいとくけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第043話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉曄伝』あり。

曹操(そうそう)以来の貢献も、その内実は迎合の人

父は劉普(りゅうふ)、母は脩(しゅう。姓は不詳)。劉渙(りゅうかん)は兄。息子の劉㝢(りゅうう)は跡継ぎで、劉陶(りゅうとう)も同じく息子。

劉曄は後漢(ごかん)の阜陵質王(ふりょうのしつおう。光武帝〈こうぶてい〉の息子の劉延〈りゅうえん〉)の後裔(こうえい)にあたる。

7歳で母を亡くしたが、臨終の際、父の側近には人に取り入り悪事を起こす性質があるから、家をめちゃくちゃにするに違いないと心配し、お前たち兄弟が成長して彼らを除けたなら、私には何も思い残すことはないと言った。

劉曄は13歳になると、母の遺命を果たそうと兄の劉渙に言ったが、劉渙は、そのようなことがどうしてできようかとためらう。すると劉曄は奥の部屋に入って側近を殺し、そのまま外へ出て母の墓前に報告した。

父の劉普は知らせを受けて怒り、人を遣り劉曄を追いかけさせる。帰ってきた劉曄は勝手な行いをしたことを詫びたが、劉普は心中で見どころがあると感じ、結局はとがめなかった。

汝南(じょなん)の許劭(きょしょう)は人物評価で有名だったが、揚州(ようしゅう)へ避難してきた際、劉曄には時の君主を補佐する才能があると褒めた。

当時の揚州は軽率な男伊達やずる賢い荒くれが多く、鄭宝(ていほう)・張多(ちょうた)・許乾(きょけん)といった者たちがそれぞれ配下を抱えていた。中でも鄭宝が最も勇敢で決断力に富み、才能や力量が人並み優れており、この地方で幅を利かせていた。

鄭宝は民を追い立てて長江(ちょうこう)の南へ行くつもりだったが、劉曄の家柄に目を付け、強迫して計画の主唱者に立てようと考える。このとき劉曄は20余歳で、こうした動きを心配したもののどうすることもできない。

ちょうど曹操が揚州へ使者を遣わし一帯を調査したことがあった。劉曄は使者と会って情勢を論じ、その帰還時に自分も同行しようと思い、数日とどまっていた。そこへ鄭宝が数百人の手下を引き連れ、牛や酒を携えて使者のご機嫌伺いにやってくる。

劉曄は宴席を利用して鄭宝を斬る手はずを整えたが、酒嫌いだった鄭宝は酔うこともなく、斬り役の男は手を下せなかった。

そこで劉曄が自ら剣を執って鄭宝を斬り殺し、曹操の命令と称し手下たちを抑える。さらに鄭宝の軍営へ赴き、利害を説いて落ち着かせた。鄭宝の手下たちは劉曄を主に推したが、彼は兵を持つことを望まず、廬江太守(ろこうたいしゅ)の劉勲(りゅうくん)にみなを託した。

劉勲の兵は強力で、長江や淮河(わいが)一帯に勢力を張っていた。孫策(そんさく)は不愉快に感じていたが、劉勲のもとに使者を遣り、へりくだった態度と手厚い贈り物をもって上繚(じょうりょう)攻めの助力を頼む。

劉勲の配下は慶賀したが、劉曄だけは諫める。上繚は小さいとはいえ、城が堅固で守るに易しい。孫策が空になったわが城を襲えば、残された者だけで持ちこたえることはできないと。しかし劉勲は聞き入れず、兵を動かし上繚を攻める。

199年、孫策は劉曄の予想どおり留守を突き、せっぱ詰まった劉勲は曹操のもとへ逃げた。

曹操が寿春(じゅしゅん)に着いたとき、廬江の郡境に陳策(ちんさく)という山賊がおり、数万の仲間を集め要害に立てこもっていた。以前に部隊長を遣って討伐しようとしたが、勝利は得られなかった。

曹操が配下に討伐すべきか諮ると、みな敵の守りが堅いし、これを手に入れても利益となるほどではないと述べる。

だが劉曄は、以前は部隊長という軽い資格の者を遣ったうえ、まだ中国が平定されていなかったが、いま天下はほぼ平定され、後から服従した者は先に処罰されることになると述べ、まずは恩賞を掲げて降伏を呼びかけつつ、大軍で向かうよう勧めた。

曹操は進言を容れ、勇将を前に、大軍を後ろに、それぞれ置き、到着するや陳策に勝利。帰還後、曹操は劉曄を召し出し「司空倉曹掾(しくうそうそうえん)」に任ずる。

曹操が「司空」を務めていた期間は196~208年。

215年3月、曹操が張魯(ちょうろ)を討伐した際、劉曄は「主簿(しゅぼ)」として従軍。

同年7月、漢中(かんちゅう)に着くと、山が険しくて登ることが難しく兵糧も欠乏。曹操は撤退を決意し、劉曄が後続の諸軍を取り仕切り、順序に従い引き揚げた。

それでも劉曄は張魯に勝てると見ており、自軍の兵糧の輸送もつながらないから、このまま引き揚げても全員が無事とはいかないと考える。そこで曹操のもとに駆けつけ、やはり攻撃するほうがよいと進言した。

こうして曹操は引き揚げを中止し、多くの弩(ど)をもって敵営に射かける。張魯は巴中(はちゅう)へ逃走したものの同年11月には降伏。曹操は漢中を平定することができた。

劉曄は、このまま蜀(しょく)を手に入れ間もない劉備(りゅうび)を攻めるよう勧めたが、曹操は聞き入れず帰還を命じた。

214年5月、劉備は成都(せいと)で劉璋(りゅうしょう)を降し、益州(えきしゅう)を支配下に置いた。

翌216年、漢中から鄴(ぎょう)へ戻ると、劉曄は「行軍長史(こうぐんちょうし)・兼領軍(けんりょうぐん)」に任ぜられる。

220年7月、劉備配下の孟達(もうたつ)が軍勢をひきいて魏に降る。曹丕(そうひ)は才能を買って大いに寵愛し、「新城太守(しんじょうのたいしゅ)」に任じたうえ「散騎常侍(さんきじょうじ)」の官位を加えた。

劉曄は孟達の人柄を不安視し、蜀や呉(ご)と接している新城への起用を諫めたが、曹丕は考えを変えなかった。のち孟達は反乱を起こし敗死した(228年1月のこと)が、これは魏にとっても失敗と言える結果だった。

この年、劉曄は「侍中(じちゅう)」に任ぜられ「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられる。

曹丕は詔(みことのり)を下し、関羽(かんう)を失った(219年12月のこと)劉備が、呉へ報復の出撃を決意するかどうかについて意見を求めた。

みな蜀は小国にすぎず、名将は関羽だけである。その関羽が死に軍勢も撃破されたいま、国内は不安と恐れを抱いており、二度と出撃することはないだろうという見解だった。

だが劉曄だけは、劉備と関羽の関係は道義上は君臣ながら、恩愛においては父子であるとし、必ず出撃すると予想した。

翌221年、劉備は兵を出して呉を攻め、呉は国を挙げて対応しながら、魏に使者を遣わし「藩国」と称する。

魏の朝臣は慶賀したが、劉曄は、孫権(そんけん)は難儀に遭ったため臣下となることを願い出たものでまったく信用できないとして、彼の困窮を利用し呉を攻め取ってしまうのがよいと述べた。

翌222年、劉備軍が猇亭(おうてい)で大敗すると、孫権が魏に示していた礼節や敬意は一変して捨て去られる。この時になって曹丕は呉の討伐を考えたが、劉曄は現状を分析し、倉卒に動くのはとても困難だと諫めた。

224年、曹丕は親征を断行し、広陵(こうりょう)の泗口(しこう)に行幸。荊州(けいしゅう)と揚州の諸軍に呉への進攻を命ずる。

曹丕が、孫権自身が来るだろうかと尋ねると、みな必ず孫権が軍勢をひきいてやってくると答えた。一方で劉曄は、孫権は兵を抑え事の成り行きを待つだろうと言う。曹丕は御車をとどめて何日か過ごしたが、やはり孫権は来なかった。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、劉曄は「東亭侯(とうていこう)」に爵位が進み300戸の封邑(ほうゆう)を賜る。

232年、病気のため「太中大夫(たいちゅうたいふ)」に任ぜられる。

しばらくして「大鴻臚(だいこうろ)」となったが、在任2年で官職を譲り、再び「太中大夫」となった後に死去(時期は不明)した。「景侯(けいこう)」と諡(おくりな)され息子の劉㝢が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く傅玄(ふげん)の『傅子(ふし)』によると、劉曄は曹叡の代になってからも親愛され、非常に重んぜられていたということです。

その曹叡から蜀を討伐しようという話が出た際、彼は参内して曹叡と議論する機会には「討伐すべきだ」と言い、退出して朝臣と議論する機会には「討伐すべきではない」と言っていたのだとか。

その後、曹叡は中領軍(ちゅうりょうぐん)の楊曁(ようき)から、劉曄が蜀を討伐すべきではないと言っていると聞き不審に思い、彼を召し出して尋ねます。このとき劉曄は口を閉ざしたままでしたが、のちひとりで曹叡に目通りした折に言いました。

「蜀を討つのは重大な計画でございます。臣(わたくし)はそのような計画を承る場合、いつも(眠っている間に)夢の中で(計画を)漏らし、自分のとがを増やさないかと心配しております。なぜ、わざわざ人にお話しになるのですか?」

「そもそも戦とは詭道(きどう)であり、軍事行動が表沙汰にならないうちは秘密を大事にするものでございます。それなのに陛下は言明されてしまいました。臣はすでに敵が聞き知っていることを心配いたします」

これを聞いた曹叡は得心し、劉曄に謝ったのだと。

このように、よく変化に対応し、物事がどちらに転んでも困らぬよう身を処していた彼でしたが、ある者が曹叡に劉曄の悪口を言います。

「劉曄は忠節を尽くしてはおりません。彼はうまく陛下のお気持ちを察し、それに同調しているだけなのです」

「陛下には劉曄と話された折、お気持ちと反対の質問をなさいませ。もし劉曄がまったく反対の意見を述べれば、それは彼の意思がご聖意(曹叡の考え)と合致していることになります。ですがいつも同じ意見を述べるようなら、彼の内実は言い逃れができないに違いありません」

こうして曹叡が試してみたところ、劉曄の内実がわかった。このことから疎んぜられた劉曄は発狂し、「大鴻臚」に出されたあと憂愁のうちに亡くなったのだと。

傅玄は、「ことわざに『巧みなごまかしは拙(つたな)い誠実さに及ばぬ』という」として、劉曄の才知は評価しながらも、その態度を残念がっていました。これは重い指摘ですね。

また、劉曄は魏の3代(曹操・曹丕・曹叡)にわたって仕えたわりには「東亭侯」の300戸どまり。これは漢の皇族だったからなのか、本質を見抜かれていたからなのか? 少し疑問が残りました。

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