董昭(とうしょう)

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【姓名】 董昭(とうしょう) 【あざな】 公仁(こうじん)

【原籍】 済陰郡(せいいんぐん)定陶県(ていとうけん)

【生没】 156~236年(81歳)

【吉川】 第050話で初登場。
【演義】 第014回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・董昭伝』あり。

曹操(そうそう)の決断に影響を与えた的確な進言。楽平定侯(らくへいのていこう)

父母ともに不詳。董訪(とうほう)は弟。息子の董胄(とうちゅう)は跡継ぎで、ほかにも息子がいたことがうかがえる。

董昭は孝廉(こうれん)に推挙され「エイ陶県長(えいとうけんのちょう。广+嬰)」や「柏人県令(はくじんけんのれい)」を務めた。のち袁紹(えんしょう)に仕えて「参軍事(さんぐんじ)」となる。

192年、袁紹が界橋(かいきょう)で公孫瓚(こうそんさん)を迎え撃ったとき、鉅鹿太守(きょろくたいしゅ)の李邵(りしょう)を始めとする郡の役人は、公孫瓚の兵が強力だったことからみなそちらに付こうとした。

これを聞いた袁紹は、董昭に「鉅鹿太守」を代行させる。そのころ鉅鹿では、郡の豪族である孫伉(そんこう)らが中心となり、官民を驚かせたり騒がせたりしていた。

董昭は郡に着くと袁紹の布令文を偽作し、すぐに孫伉らを斬り捨てる。そのうえで官民の慰撫(いぶ)にあたり、みなを落ち着かせた。袁紹は報告を受け、見事な処置だとたたえた。

魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)の栗攀(りつはん)が兵に殺害されると、袁紹は董昭に「魏郡太守」を代行させる。

魏郡の郡境ではひどく治安が乱れており、万単位の賊がいた。それでも使者の往来はあって、商売や取り引きが行われていた。そこで董昭は彼らを厚遇し、これを利用して仲間割れさせ、賊の隙を突き攻撃しては大勝を博する。

董昭の弟の董訪は張邈(ちょうばく)の幕下にいたが、袁紹は張邈と仲が悪かった。袁紹が部下の讒言(ざんげん)を聞き董昭を処罰しようとしたため、彼は献帝(けんてい)のもとへ行こうと考える。

こうして河内(かだい)まで来ると太守の張楊(ちょうよう)に引き留められた。董昭は張楊に自分の印綬(いんじゅ)を託し、朝廷に返還してほしいと頼む。その後、董昭は改めて「騎都尉(きとい)」に任ぜられた。

このころ曹操は兗州(えんしゅう)を治めており、張楊のもとに使者を遣わし、長安(ちょうあん)への使いが領内を通過する許可を求める。張楊が許可しなかったので、董昭は、この機会に曹操と結び、彼の言上事を通じてやったうえ同時に推挙するよう勧めた。

張楊は進言を容れ、言上事を通じてやり、さらに曹操を推挙する上奏も行う。董昭も曹操のために手紙をしたため、長安にいる李傕(りかく)や郭シ(かくし。氵+巳)らに届け、それぞれの身分に応じて丁寧なあいさつをさせた。張楊が使者を遣ると、曹操から犬・馬・金・絹が贈られてきた。

195年(~翌196年の初め)、長安を脱した献帝が安邑(あんゆう)にあったとき、董昭は河内から出かけていき、詔(みことのり)により「議郎(ぎろう)」に任ぜられる。

翌196年、曹操は許(きょ)の黄巾賊(こうきんぞく)を討伐すると、河東(かとう)に使者を遣わした。

同年7月、献帝は洛陽(らくよう)への還幸を果たしたが、韓暹(かんせん)・楊奉(ようほう)・董承(とうしょう)、そして張楊は反目し合い仲が悪かった。董昭は曹操に代わって楊奉に書簡を送り、互いに協力して助け合うことを勧める。

これを受け楊奉が董昭と共同で上奏し、曹操は「鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)」に任ぜられ「費亭侯(ひていこう)」に封ぜられた。

『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)では、上の任官と封爵が196年6月のことだとある。なお「費亭侯」は亡父の曹嵩(そうすう)が持っていた爵位で、このとき曹操が継いだ形。

董昭も「符節令(ふせつれい)」に昇進。

曹操が洛陽に赴き、献帝への拝謁を済ませた後、董昭を招いて今後の策を尋ねる。董昭は許への遷都を勧めたうえ、精兵を擁する楊奉の対策も説いた。やがて遷都が決行されると、楊奉は当てを失い、韓暹らと定陵(ていりょう)へ行って荒らし回る。

同年10月、曹操は彼らを相手にせず、楊奉の本拠である梁(りょう)の軍営を攻め落とす。軍勢を失った楊奉と韓暹は袁術(えんじゅつ)に降った。

この年、徐州(じょしゅう)を失った劉備(りゅうび)が曹操のもとに身を寄せる。

198年、董昭は「河南尹(かなんのいん)」に昇進。

このころ張楊が配下の将軍の楊醜(ようしゅう)に殺される。張楊配下の長史(ちょうし)の薛洪(せつこう)と河内太守の繆襲(びゅうしゅう)は、城を固守して袁紹の救援を待った。

董昭は曹操の命を受けて単身で城へ乗り込み、ふたりを説得。薛洪と繆襲は軍勢を挙げて降伏し、董昭は「冀州牧(きしゅうのぼく)」となった。

翌199年、曹操は劉備を徐州へ派遣し袁術を防がせる。董昭は劉備への警戒を促したものの、曹操は聞き入れなかった。劉備は下邳(かひ)に着くと、曹操配下の徐州刺史(じょしゅうしし)の車胄(しゃちゅう)を殺害して背いた。

翌200年、曹操自ら劉備討伐に向かうと、董昭は「徐州牧」に転ずる。

のち袁紹が配下の顔良(がんりょう)に東郡(とうぐん)を攻めさせると、董昭は「魏郡太守」に転じ、曹操に付き従い討伐にあたった。

顔良を討った後、さらに軍を進めて鄴城(ぎょうじょう)を包囲(203年4月のこと)する。このとき袁紹の同族で、彼から「魏郡太守」に任ぜられていた袁春卿(えんしゅんけい)が城内にいた。

曹操は、揚州(ようしゅう)から彼の父の袁元長(えんげんちょう)を連れてこさせる。董昭は袁春卿に手紙を遣り、曹操に帰順するようを勧めた。

204年、鄴が平定された後、董昭は「諫議大夫(かんぎたいふ)」となる。

のち袁尚(えんしょう)が烏丸族(うがんぞく)の蹋頓(とうとつ)を頼ると、曹操は討伐を検討。その際、兵糧輸送の困難が不安視されたが、董昭の献策により「平虜(へいりょ)」と「泉州(せんしゅう)」のふたつの運河を掘り(205~206年のこと)、海まで輸送路を通ずることで解決した。

曹操の上奏によって董昭は「千秋亭侯(せんしゅうていこう)」に封ぜられ、「司空軍祭酒(しくうぐんさいしゅ)」に転じた。

曹操が「司空」を務めていた期間は196~208年。

のち董昭は、古代の「5等級の爵位制度」を復活すべきだと進言。曹操は213年に「魏公(ぎこう)」となり、さらに216年には「魏王」に昇ったが、このことは董昭が最初に言いだした。

219年、曹仁(そうじん)が樊城(はんじょう)で劉備配下の関羽(かんう)に包囲されたとき、孫権(そんけん)の使者が着き、ひそかに西へ軍勢を進め、関羽の不意を突く旨を伝えてくる。

曹操は配下を戒め、みなも当然このことを秘密にすべきだと考えた。だが董昭は、孫権の希望に応えて秘密にしたように見せつつ、裏で漏らすほうがよいと言う。

関羽が孫権の進軍を聞き、もし引き返して防御に回れば樊城の包囲は解け、すぐに目指す利益が手に入る。孫権と関羽を対峙(たいじ)させ、居ながらにして疲弊を待つべきである。秘密にして漏らさなければ、孫権に思いを遂げさせることになり、最上の計ではないと。

また、包囲されている樊城の将軍や官吏たちは孫権軍の動きを知らない。残りの食糧を計算しながら恐怖し、二心を抱くかもしれず、そうなった場合の弊害は小さくない。

それに関羽は気性が激しいから、孫権が攻めると言ってきた江陵(こうりょう)や公安(こうあん)の堅守に自信を持っているはずで、すぐに引き返すことはないとも。

そこで曹操は徐晃(じょこう)に救援を命じ、孫権の文書の写しを樊城と関羽の軍営に射込ませた。樊城の士気は倍加したが、やはり関羽は引き返す決断を下さず、両城を攻略した孫権軍により撃破されてしまう。

翌220年2月、曹丕(そうひ)が「魏王」を継ぐと、董昭は「将作大匠(しょうさくたいしょう)」に任ぜられる。

同年10月、曹丕が帝位に即くと、董昭は「大鴻臚(だいこうろ)」に昇進し「右郷侯(ゆうきょうこう)」に爵位が進む。

翌221年、董昭の封邑(ほうゆう)から100戸を分けて、弟の董訪が「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられる。董昭自身は「侍中(じちゅう)」に転じた。

224年、董昭は「成都郷侯(せいときょうこう)」に移封され「太常(たいじょう)」に任ぜられた。そしてこの年のうちに「光禄大夫(こうろくたいふ)・給事中(きゅうじちゅう)」に転じた。

曹丕の東征に付き従い、226年に帰京して「太僕(たいぼく)」に任ぜられる。

同年5月、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと「楽平侯」に爵位が進み、1千戸の封邑を賜ったうえ「衛尉(えいい)」に転じた。また封邑から100戸を分け、息子のひとりが「関内侯」に封ぜられた。

230年、「司徒(しと)」を代行。

232年、正式に「司徒」となる。

董昭は末世の風俗の弊害について上奏し、若者らが学問を根本とせず、もっぱら友人との付き合いに努めていると述べ、国家を背負うような人物でさえ、親への孝や目上の者への従順、清潔や品行の良さを第一に考えず、権勢に走り利益に向かうことを第一としている。

徒党を組んで仲間内で互いに褒め合い、悪口を浴びせることをもって処罰とし、仲間を褒めることをもって褒美としている。自分に従う者にはあふれるほどの賛辞を呈し、従わない者には欠点を作り上げていると憂えた。

その結果、曹叡は厳しい詔を下し、諸葛誕(しょかつたん)やトウ颺(とうよう。登+阝)を罷免した。

236年、董昭が81歳で死去すると「定侯」と諡(おくりな)され、息子の董胄が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

董昭の献策をすべて拾うことはできませんでしたが、彼の意見はたびたび曹操の重要な決断に影響を与えました。献帝の奉戴(ほうたい)を勧めたことについては荀イク(じゅんいく)と考えが異なり、彼の場合は曹操個人への思い入れが強かったように感じます。

ジャンルを問わない進言ぶりで、政事はもちろん、荊州で関羽が敗死に追いやられた際の状況分析など、軍事においても的確な意見を述べていました。

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