留賛(りゅうさん) ※あざなは正明(せいめい)

【姓名】 留賛(りゅうさん) 【あざな】 正明(せいめい)

【原籍】 会稽郡(かいけいぐん)長山県(ちょうざんけん)

【生没】 183~255年(73歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。

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大けがをした脚に、自ら荒療治を施す

父母ともに不詳。留略(りゅうりゃく)と留平(りゅうへい)という息子がいた。

留賛は若いころ郡吏になり、黄巾賊(こうきんぞく)の残党の呉桓(ごかん)と戦って首級を挙げる。だがこのときに大けがをし、片方の脚をまっすぐ伸ばせなくなった。

それでも留賛は、脚の不自由さにかこつけてくすぶり続けることをよしとせず、親族の反対を押し切って自分の脚に刃物を入れ、筋を切って脚を引き伸ばす。

傷が治ると、留賛は脚を引きずりながらではあるものの、歩けるようになった。

この話を聞いた凌統(りょうとう)の推薦により、留賛は官に試用される機会を得る。こうしてしばしば戦功を立て、累進して屯騎校尉(とんきこうい)になった。

一方で留賛はいつも正論を吐き、主君におもねることがなかったので、孫権(そんけん)は彼を苦手に感じていたという。

252年10月、呉(ご)の諸葛恪(しょかつかく)は人数を集めて東興(とうこう)に大規模な堤を造り、左右の山地にふたつの城も築く。この城に1千人ずつの兵士を置き、全端(ぜんたん)と留略に守備を命ずると、自身は軍勢をまとめて引き揚げた。

同年12月、魏(ぎ)の胡遵(こじゅん)と諸葛誕(しょかつたん)が7万の軍勢をひきい、両城を包囲して堤を破壊しようとしたため、諸葛恪は4万の軍勢をもって救援に駆けつける。

このとき留賛は先鋒を務めて呉軍の大勝に貢献し、左将軍(さしょうぐん)に昇進した。

255年、魏の毌丘倹(かんきゅうけん)と文欽(ぶんきん)が離反し、楽嘉(らくか)で魏軍と戦う。

呉の孫峻(そんしゅん)の指揮の下、留賛は左護軍(さごぐん)となって節(せつ。権限を示すしるし)を授かり、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の呂拠(りょきょ)らとともに、魏軍を牽制(けんせい)すべく寿春(じゅしゅん)を攻めた。

このとき留賛が陣中で病を得ると、孫峻は輜重(しちょう)部隊をひきいて先に帰還するよう命ずる。

留賛はこの道中で、魏将の蔣班(しょうはん)から歩騎4千による追撃を受けた。

留賛は戦える状態でなかったが、将軍のしるしである曲蓋(柄の曲がった貴人用の傘)と印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を身内の若者に託して持ち帰らせ、自身は討ち死にした。

戦のほうも、ほどなく文欽が魏軍に敗れて呉に投降したため、孫峻は寿春から軍勢を引き揚げた。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫峻伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によるものです。

この『呉書』には、留賛が戦いの前に行っていたゲン担ぎにも触れられており、彼は敵を前にすると髪を振り乱して叫び、続いて大声で歌い、部下たちが唱和したのだという。

これをやっておくと、留賛は部隊を進めても敗れることがなかったと……。

留賛は最後の戦いに臨んで、病のために歌うことができず、これも自分の運命だと嘆息したともあります。

半世紀以上にわたり、数々の戦場をくぐり抜けてきた留賛。その締めくくりも、やはり戦場でした。

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