李仁(りじん)B ※呉(ご)の孫晧(そんこう)配下の侍中(じちゅう)

【姓名】 李仁(りじん) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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孫晧(そんこう)の行いに非難すべきところはなし

父母ともに不詳。

孫晧は群臣を集めて酒宴を開くとき、いつも皆が酔いつぶれるまで飲ませた。

その際は、10名の黄門郎(こうもんろう)を選んで宴席に立たせておき、群臣に過ちを犯す者がいないか監視させた。

こうしておいて、大きな過失があった者をその場で厳刑に処し、小さな過失があった者にも必ず罰を与えた。

また、孫晧の後宮には数千人の宮女がいたが、新たに宮女を選んでは後宮へ入れることをやめなかった。

このころ宮中に川が引かれていたが、孫晧は意に沿わぬ者を見つけては殺害し、その川に流したという。ほかにも孫晧は顔の皮を剝がせたり、眼をえぐらせたりもした。

李仁は孫晧の下で侍中(じちゅう)を務めていたが、280年に孫晧が晋(しん)の大攻勢を受けて降伏した後、晋の侍中の庾峻(ゆしゅん)らに尋ねられる。

「聞くところによれば、呉主(孫晧)は人の顔を剝がせたり、脚を切らせたりしたというが、これは本当のことなのか?」

李仁は、そのようなことを言った者が間違っているとし、『論語(ろんご)』を引き、ひとたび君子が下手に立たされると、天下の悪事がみなその人の責任にされてしまうとあるが、まさにこのことだと応えた。

加えて、そうしたことが行われていたとしても、とがめるに及ばないとし、堯(ぎょう)や舜(しゅん)の時代には五刑があり、夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)の時代には七辟(しちへき。7種の刑罰)があったことに触れ、必ずしも肉刑(身体を傷つけたり切断したりする刑)を残酷なものと捉えていなかったと応えた。

さらに庾峻らが尋ねる。

「帰命侯(きめいこう。孫晧)は目をそらしたり、見つめ返した者の眼をえぐらせたというが、これは本当のことなのか?」

李仁は、これも事実ではないとしたうえで言った。

「『礼記(らいき)』の曲礼編(きょくれいへん)には、『天子(てんし)にお目通りする際は襟より下を見る。諸侯に対しては顎より下を見る。大夫(たいふ)に対しては正面を向いてよいが、目をそらさない。士に対しては正面を向き、5歩の範囲なら目をそらしてもよい』とある」

「『目上の者を正面から見るのは傲慢であり、逆に帯から下を見るのは憂いがあるからであり、目をそらせるのは邪心があるからだ』ともある」

「礼法に従ってものを見るとき、視線には特に気をつけなくてはならないが、それは人君であればなおさらだ」

「人君を見返すのは、礼にいうところの傲慢にあたる。傲慢であれば礼を欠き、礼を欠けば臣下にあるまじき不遜の行いが目立ち、不遜な行いがあれば罪を犯し、罪を犯せば思わぬ罰を受けることになる」

「もし本当に眼をえぐらせることがあっても、何を非難するところがあるだろうか?」

庾峻らは李仁の応答を高く評価したという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)によるものです。

李仁の名は正史『三国志』の本文には見えず、裴松之注に引かれる形で登場します。なので、詳しい事績なども伝わっていません。

旧主の孫晧を擁護する李仁の熱弁でしたが、この論法はどうなのでしょうね?

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