温恢(おんかい) ※あざなは曼基(まんき)

【姓名】 温恢(おんかい) 【あざな】 曼基(まんき)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)祁県(きけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・温恢伝』あり。

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曹操(そうそう)が手元に置きたがった逸材

父は温恕(おんじょ)だが、母は不詳。息子の温生(おんせい)は跡継ぎ。

温恢は15歳の時に涿郡太守(たくぐんたいしゅ)を務めていた父を亡くし、その柩(ひつぎ)を守って郷里へ帰る。

家は裕福だったものの、彼は世の混乱ぶりを見、富を持っていても仕方がないと考え、すべて一族の者に分け与えてしまう。郷里の人々は立派な行いだとたたえ、前漢(ぜんかん)末の郇越(しゅんえつ)に比した。

その後、温恢は孝廉(こうれん)に推挙され、廩丘県長(りんきゅうけんちょう)、鄢陵県令(えんりょうけんれい)、広川県令(こうせんけんれい)、彭城国相(ほうじょうこくしょう)、魯国相(ろこくしょう)を歴任し、いずれの任地でも高い評価を得た。

208年、中央へ入って丞相主簿(じょうしょうしゅぼ)となった後、ほどなく地方へ出て揚州刺史(ようしゅうしし)を務める。

このとき曹操は「卿(きみ)をそば近くに置いておきたいと強く思うが、やはり揚州の重要さとは比べられない」と言った。

さらに合肥(ごうひ)に駐屯する張遼(ちょうりょう)や楽進(がくしん)らに対しても、「揚州刺史は軍事に通じているから、よく彼と相談して動くようにせよ」と言い送った。

219年、孫権(そんけん)が合肥を攻めた際(この記事についてはイマイチわからず)、温恢は兗州刺史(えんしゅうしし)の裴潜(はいせん)に向かって言った。

「このあたりにいる賊軍(孫権軍)は心配しなくてよい。それより気がかりなのは、征南(せいなん。征南将軍〈せいなんしょうぐん〉)の軍に不測の事態が起こることだ」

「このところ(漢水〈かんすい〉の)水が増えつつあるのに、子孝(しこう。曹仁〈そうじん〉のあざな)は樊城(はんじょう)で敵地深く孤立し将来の危険に備えていない」

「(劉備〈りゅうび〉配下の)関羽(かんう)は勇猛だから、利に乗じて攻めてくれば、きっと災難を生ずるだろう」

結局、(于禁〈うきん〉が関羽に捕らえられるという)樊城の事件が起こる。

これを受け、曹操は裴潜と豫州刺史(よしゅうしし)の呂貢(りょこう)らに出撃を命じたが、ゆっくり来いとも言いつけた。

温恢は密かに裴潜に教える。

「これは襄陽(じょうよう)の危急に駆けつけよということだろう。急いで来るよう言われないのは遠方の民を動揺させないためだ。1日か2日のうちには密書が届き、卿に早く来いと急き立てるはず」

「すぐに張遼らも召されるだろうが、彼らは王(曹操)のお心をよく知っている。後から召された者が先に到着したら、卿はおとがめを受けるぞ」

そこで裴潜は輜重(しちょう)を留め、軽装備に改めて進発したが、やはり到着を催促する命令が届く。続いて張遼らが召されたことも温恢の予想通りだった。

翌220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと温恢は侍中(じちゅう)に任ぜられ、後に地方へ出て魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)となった。

数年して涼州刺史(りょうしゅうしし)・持節(じせつ)・領護羌校尉(りょうごきょうこうい)に昇進したが、赴任の道中で病にかかって亡くなる(時期は不明)。このとき45歳だった。

曹丕は彼の死を悼む詔(みことのり)を下し、息子の温生を関内侯(かんだいこう)に封じた。

管理人「かぶらがわ」より

一部で捉えづらい記事もありましたが、温恢は孫権の勢力圏と接する揚州をよく保った名刺史でした。

財産にこだわらないうえ、地方での治績も豊富。さらに曹操が認める軍事の才能まで持つとなれば、揚州刺史への起用はうなずけます。

赴任途中の病がなければ、涼州でも活躍したことでしょう。

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