【姓名】 董卓(とうたく) 【あざな】 仲穎(ちゅうえい)
【原籍】 隴西郡(ろうせいぐん)臨洮県(りんとうけん)
【生没】 139?~192年(54歳)
【吉川】 第011話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・董卓伝』あり。
歴史に残る暴虐宰相
父は董君雅(とうくんが)だが、母は不詳。董擢(とうてき)は兄で董旻(とうびん)は弟。
董卓は若いころ男だてを気取り、羌族(きょうぞく)の住む地を放浪したことがあった。このとき羌族の顔役らと交わりを結んだ。
のち郷里の隴西郡へ帰り農耕に従事したが、羌族の顔役が訪ねてくると、耕牛を殺して宴会を催し歓迎した。顔役は意気に感じ、1千頭余りの家畜を集めて贈ったという。
桓帝(かんてい。在位146~167年)の末年、6郡(漢陽〈かんよう〉・隴西・安定〈あんてい〉・北地〈ほくち〉・上郡〈じょうぐん〉・西河〈せいか〉)の良家の子弟から羽林郎(うりんろう)が選抜された際、董卓も選ばれた。戦功を挙げて昇進したものの、たびたび免官になる。やがて独自色を強めるに至った。
189年に大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の命を受けて上洛すると、混乱に乗じ勢力を拡大。
同年9月には少帝(しょうてい。劉辯〈りゅうべん〉)を廃して献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)を擁立。少帝の生母である何太后(かたいこう)を毒殺した。
翌190年1月、袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓連合軍が挙兵。
同年2月、郎中令(ろうちゅうれい)の李儒(りじゅ)に命じ、弘農王(こうのうおう)に貶(おと)していた劉辯も毒殺。さらに長安(ちょうあん)への遷都を強行し、洛陽(らくよう)は焦土と化した。
翌191年2月、太師(たいし)に就任したうえ尚父(しょうほ)と号する。4月には自身も長安へ入る。
翌192年4月、司徒(しと)の王允(おういん)と尚書僕射(しょうしょぼくや)の士孫瑞(しそんずい)が呂布(りょふ)と共謀。ついに董卓は誅殺された。
主な経歴
生年は不詳。
-166~167年-
このころ軍の司馬(しば)として使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうしょう)の張奐(ちょうかん)に付き従い、幷州(へいしゅう)征伐で戦功を挙げた。このときの功により郎中(ろうちゅう)に任ぜられ、縑(きぬ)9千匹(びき)を賜ったが、恩賞は部下にみな分け与えた。
このあと広武県令(こうぶけんれい)、蜀郡北部都尉(しょくぐんほくぶとい)、西域戊己校尉(せいいきぼきこうい)と昇進したものの免官になる。やがて再び召し出され、幷州刺史(へいしゅうしし)・河東太守(かとうたいしゅ)に任ぜられた。
-184年-
この年、黄巾(こうきん)の乱が勃発。優勢に戦いを進めていた北中郎将(ほくちゅうろうしょう)の盧植(ろしょく)が宦官(かんがん)の誣告(ぶこく)によって失脚すると、代わって中郎将として張角(ちょうかく)と戦うも敗れ、またも免官になった。
-187年-
この年、韓遂(かんすい)らが涼州(りょうしゅう)で反乱を起こし隴西郡を包囲すると、再び中郎将に任ぜられ、西進して韓遂軍を防いだ。
このとき董卓を含めて6つの軍が隴西へ向かったが、彼だけが兵を損ずることなく帰還し、扶風(ふふう)に駐屯した。功により前将軍(ぜんしょうぐん)に任ぜられタイ郷侯(たいきょうこう)に封ぜられた。
-188年-
この年、少府(しょうふ)に任ずるので、扶風に駐屯させている軍勢を左将軍(さしょうぐん)の皇甫嵩(こうほすう)に預け、行在所(あんざいしょ。天子〈てんし〉が行幸する際に使う仮の御殿)へ出頭するよう詔(みことのり)を受けた。
そこで霊帝(れいてい)に上奏し、いまだ涼州が騒乱状態であること、配下の兵士が自身を慕い引き留めていることを訴え、出頭命令には従わなかった。
-189年-
?月、霊帝の詔により幷州牧(へいしゅうぼく)に任ぜられ、配下の軍勢を皇甫嵩に預けるよう命ぜられる。再び霊帝に上奏し、軍勢をひきい幷州の辺境地帯で尽力したいと訴え、このときも詔に従わなかった。
4月、霊帝が崩御(ほうぎょ)し少帝が即位。大将軍の何進は、司隷校尉(しれいこうい)の袁紹(えんしょう)らと協力して宦官の誅滅を計画したものの、何太后は聞き入れようとしなかった。
?月、何進の命を受け、上洛して宦官らを誅殺する旨の上書を奉る。
8月、洛陽に到着する前、中常侍(ちゅうじょうじ)の張譲(ちょうじょう)や段珪(だんけい)により何進が殺害される。これを受け袁紹や虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の袁術(えんじゅつ)が東宮と西宮を焼き、宦官を皆殺しにした。
段珪らは少帝と異母弟で陳留王(ちんりゅうおう)の劉協を城外へ連れ出し、小平津(しょうへいしん)まで逃走したものの、段珪らは追い詰められて自殺した。
ほどなく少帝を北邙(ほくぼう)で出迎え、ともに洛陽へ帰還。亡くなった何進の兵に加え、何進配下の部曲将(ぶきょくしょう)だった呉匡(ごきょう)によって殺害された、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の何苗(かびょう。何進の弟)の兵も手中に収めた。
さらに呂布に命じて執金吾(しつきんご)の丁原(ていげん)を殺害させ、その配下の軍勢をも併せる。こうして洛陽の軍権を一手に握ることに成功した。
8月、長期にわたって雨が降らなかったことを理由に、少帝が司空(しくう)の劉弘(りゅうこう)を罷免。その後任として司空に就任。
9月、太尉(たいい)に昇進。少帝から節(せつ。軍権を示す)と鉞(えつ。まさかり。同じく軍権を示す)を貸し与えられたうえ、虎賁兵を持つことも許された。
9月、少帝を廃して弘農王に貶し、陳留王の劉協を帝位に即ける(献帝)。
9月、何太后を毒殺。
10月、白波(はくは)の賊が河東郡に侵攻。部将の牛輔(ぎゅうほ)を遣わし討伐にあたらせる。
11月、相国(しょうこく)に昇進し爵位も郿侯(びこう)に進む。加えて「帝に拝謁する際に名乗らなくてもよい」「剣を帯び履(くつ)をはいたまま上殿してもよい」という特権が認められた。
董卓の母は池陽君(ちようくん)に封ぜられ、家令(かれい)と家丞(かじょう)を置くことが許された。
-190年-
1月、後将軍(こうしょうぐん)の袁術、冀州牧(きしゅうぼく)の韓馥(かんふく)、豫州刺史(よしゅうしし)の孔伷(こうちゅう)、兗州刺史(えんしゅうしし)の劉岱(りゅうたい)、河内太守(かだいたいしゅ)の王匡(おうきょう)、勃海太守(ぼっかいたいしゅ)の袁紹、陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)の張邈(ちょうばく)、広陵太守(こうりょうたいしゅ)の張超(ちょうちょう)、東郡太守(とうぐんたいしゅ)の橋瑁(きょうぼう)、山陽太守(さんようたいしゅ)の袁遺(えんい)、済北国相(せいほくこくしょう)の鮑信(ほうしん)、長沙太守(ちょうさたいしゅ)の孫堅(そんけん)らが同時に挙兵。それぞれ数万の軍勢を擁しており袁紹を盟主に推挙した。このとき曹操(そうそう)は奮武将軍(ふんぶしょうぐん)を兼務した。
2月、郎中令の李儒に命じ、弘農王の劉辯を毒殺。
2月、城門校尉(じょうもんこうい)の伍瓊(ごけい)と督軍校尉(とくぐんこうい)の周毖(しゅうひ)を殺害。当初は伍瓊や周毖らを信任し、彼らが推挙した韓馥・劉岱・孔伷・張咨(ちょうし)・張邈らを取り立て州や郡を治めさせることにした。
これが裏目となり、韓馥らは軍勢を糾合して反董卓連合軍を結成。このことを聞いた董卓は伍瓊や周毖らが内通したと思い込み、彼らをことごとく斬殺したのだった。
2月、献帝に迫り長安への遷都を強行。洛陽の住民を追い立て西方の関中(かんちゅう)へ移らせる。一方で自身は洛陽に留まり、畢圭苑(ひっけいえん)に駐屯した。
3月、洛陽に火を放つよう命じ、宮廟(きゅうびょう)や民家を焼き尽くす。
3月、袁紹の一族である太傅(たいふ)の袁隗(えんかい)と太僕(たいぼく)の袁基(えんき)を殺害したうえ、その一族も皆殺しにする。
6月、五銖銭(ごしゅせん)を廃止し新たに小銭(しょうせん)を鋳造。この貨幣は粗悪なもので、物価の暴騰を招いたため、結局は流通しなくなった。
この年、曹操の軍勢を滎陽(けいよう)で撃破した。
-191年-
2月、太師に就任したうえ尚父と号する。
2月、部将の胡軫(こしん)が陽人聚(ようじんしゅう)で孫堅に大敗する。
2月、洛陽近郊にある歴代の皇帝(こうてい)の陵墓を発(あば)き、財宝を奪い取る。
?月、孫堅が軍勢をひきいて洛陽へ入城。
4月、長安へ入城。弟の董旻は左将軍・鄠侯(ここう)に取り立てられ、甥の董璜(とうこう)は侍中(じちゅう)・中軍校尉(ちゅうぐんこうい)として軍勢を統率するなど、董卓の一族はみな高官となった。
?月、郿に城を築き、城壁を長安城と同じ高さとし、城内に30年分の穀物を蓄える。
10月、衛尉(えいい)の張温(ちょうおん)を殺害。
-192年-
4月、司徒の王允と尚書僕射の士孫瑞が呂布と共謀し、董卓の殺害を計る。
このとき献帝の病が快癒したことを寿ぎ、未央殿(びおうでん)に多くの臣下が列席する機会があった。呂布は騎都尉(きとい)の李粛(りしゅく)らに命じて10人ほどのニセ衛士を仕立て、掖門(えきもん)を固めさせた。
董卓は李粛に門を通ることを阻まれ、呂布を呼んだ。呂布は懐から詔書を取り出すと董卓を殺害。その三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)も皆殺しにした。長安の士人や庶民はみな喜び合い、董卓に迎合していた者たちは投獄後に処刑されたという。
管理人「かぶらがわ」より
董卓は生まれつき武芸の才能があり、類いまれな腕力の持ち主だったそうです。馬を疾駆させながら左右から矢を射ることができたのだとか。
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く司馬彪(しばひゅう)の『九州春秋(きゅうしゅうしゅんじゅう)』には、こういう話もありました。
「董卓が上洛した当初、配下の歩騎は3千にすぎなかった。これでは遠近の者を従わせることはできないと考え、夜になると4、5日おきに配下の歩騎を城外へ出す。翌日には旗を連ね、陣太鼓を鳴らしてにぎやかに再入城させ、『西方の兵がまたも洛陽に着いた』と宣伝した。人々はからくりに気づかず、『董卓の軍勢は数えきれないほど多い』とうわさした」のだと。
本伝には「董卓は残忍非情な性格で、厳しい刑罰をもって人々を脅し、わずかな恨みにも必ず報復した」ともあり、その性格を表すエピソードとして次のような話がありました。
「董卓が軍勢をひきいて陽城(ようじょう)へ赴いたとき、ちょうど春祭のため集まっていた男子の首をことごとく斬り、婦女子や財物を略奪した」
「斬り落とした首を車の轅(ながえ)にぶら下げて洛陽へ戻ると、『賊を討ち破り大量の鹵獲品(ろかくひん)を得た』と吹聴し、万歳を唱えさせる始末。持ち帰った首は街中で焼かせ、略奪してきた婦女子を兵士たちに与えた。董卓は宮女や公主(こうしゅ)に暴行を加えるまでに及び、横暴を極めた」のだと。
さらに本伝にはこのような話も。
「あるとき董卓が郿へ赴くことがあり、公卿(こうけい)以下がそろって横門(おうもん。長安城から北へ出る門のうち最も西にある門)の外で送別の宴会が催されたことがあった」
「あらかじめ董卓は幔幕(まんまく)を張り準備しておき、酒宴の席に、反乱を起こしたあと降伏した北地郡の数百人を引き入れた。董卓はこれらの降伏者の舌を切らせると、手足を切ったり眼をくりぬかせたりし、大きな鍋(なべ)で煮たりもした」
「死にきれない者が机の間を転げ回り、みなが箸(はし)やさじを取り落としても、董卓だけは平然と飲み食いを続けていた」
「太史(たいし)が雲気を見て占い、『公卿の中に死刑になる者がいるはずです』と伝えた。董卓は、かねて恨んでいた衛尉の張温に袁術と内通したと言いがかりをつけ、鞭(むち)で打ち殺した」
「法令が過酷であるうえ、愛憎により刑罰を乱用したため人々は互いに誣告し合うようになった。冤罪(えんざい)で死ぬ者は4ケタの数に上った」
そして、本伝の裴松之注に引く『英雄記(えいゆうき)』には「董卓の屍(しかばね)は市場にさらされた」とありました。
「見張りの役人は日が暮れると大きな灯心を作り、これを董卓のへその上に置いた。明かりは朝まで消えず、このようなことが何日も続いた」のだとも。
『三国志』にはこういうケタ外れの人物も登場しますよね。豪快な親分というわけでもないですし、この董卓には何か病的なものを感じました。
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