曹鑠(そうしゃく) ※魏(ぎ)の相殤王(しょうしょうおう)

【姓名】 曹鑠(そうしゃく) 【あざな】 ?

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・相殤王鑠伝(しょうしょうおうしゃくでん)』あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の息子で曹丕(そうひ)の異母弟? 相殤王

父は曹操、母は劉氏(りゅうし。劉夫人〈りゅうふじん〉)。

同母兄には曹昂(そうこう)がおり、曹氏(清河長公主〈せいかちょうこうしゅ〉)も同母姉妹。息子の曹潜(そうせん)は跡継ぎ。

曹鑠は早くに亡くなり、229年に相殤王の諡号(しごう)を追贈された。

233年になって息子の曹潜が跡を継いだものの、同年に薨去(こうきょ)した。

翌234年、曹潜の息子の曹偃(そうえん)が跡を継ぐ。このときの封邑(ほうゆう)は2,500戸だった。

ところが236年に曹偃が薨去。曹偃には息子がなく、封国は没収された。

その後、255年になり、楽陵王(らくりょうおう)の曹茂(そうぼう)の息子である陽都郷侯(ようときょうこう)の曹竦(そうしょう)が、曹鑠の跡継ぎとして立てられた。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

しかし、引っかかるところは多かったです。本伝を見た限りでは、曹潜の跡を継いだ曹偃が、曹鑠の息子(曹潜の弟)なのか曹潜の息子なのかがイマイチわかりにくい。

『三国志全人名事典』(『中国の思想』刊行委員会編著 徳間書店)を見ると、「曹偃は曹潜の子」とありました。ですが同書の「曹氏系譜」を見ると、曹偃は曹潜の下(息子)ではなく、隣(弟)に置かれていました。

曹鑠の生没年がはっきりしないので想像するのも難しいですが――。曹鑠の同母兄の曹昂が戦死したのは197年のことで、これは確か。また、曹昂は20歳の時に孝廉(こうれん)に推挙されたともあるので、戦死時に20歳以上だったことも確か。

さらに、曹昂は生母の劉氏(曹鑠の生母でもある)が早くに亡くなったため、曹操の最初の妻である丁氏(ていし)に養育されたという。曹鑠も丁氏に養育されたのかはわかりませんけど……。

それでもここで、劉氏は早くに亡くなったとあるとはいえ、少なくとも曹鑠を生んだ後に亡くなったことはわかりました。

曹鑠は生年に加えて没年も不明なので、187年生まれの曹丕の異母兄なのか異母弟なのかも断定できないと思います。

上では一応「曹丕の異母弟?」としてみましたが、異母兄と考えたほうが自然かもしれません。曹鑠と曹潜は親子ですが、曹潜と曹偃も親子と見ていいのでしょうか?

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