周処(しゅうしょ) ※あざなは子隱(しいん)

【姓名】 周処(しゅうしょ) 【あざな】 子隱(しいん)

【原籍】 呉郡(ごぐん)陽羨県(ようせんけん)

【生没】 ?~297年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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晋代(しんだい)でも活躍した周魴(しゅうほう)の息子

父は周魴だが、母は不詳。周玘(しゅうき)・周靖(しゅうせい)・周札(しゅうさつ)という息子がいた。

周靖の名は『三国志』には見えない。

237年、周処は周魴が死去したため跡を継ぎ、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

276年、呉興(ごこう)の陽羨山にある大岩の各所に瑞祥(ずいしょう)が現れたとの報告を受けて、周処は太常(たいじょう)を代行し、同じく司徒(しと)を代行した董朝(とうちょう)とともに陽羨へ向かう。

そして孫晧(そんこう)の命により、陽羨山を国山(こくざん)として封禅(ほうぜん)の儀式を執り行った。

天紀(てんき)年間(277~280年)になると、周処は東観令(とうかんれい)や無難督(ぶなんとく)を歴任。

280年、呉が滅亡した後は晋に仕え、御史中丞(ぎょしちゅうじょう)を務めた際には権力者の不正も容赦なく糾弾した。

後に(296年に)斉万年(せいばんねん)が反乱を起こすと、周処も建威将軍(けんいしょうぐん)として討伐に加わり(翌297年に)戦死。平西将軍(へいせいしょうぐん)の官位を追贈された。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)および『三国志』(呉書・周魴伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞預(ぐよ)の『晋書(しんじょ)』によるものです。

唐代(とうだい)に編纂(へんさん)された『晋書』には「周処伝」がありますが、そちらを吟味できていないので、この記事も中途半端なものになってしまいました。いずれ加筆できればと思います。

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