応瑒(おうちょう)

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【姓名】 応瑒(おうちょう) 【あざな】 徳レン(とくれん。王+辶+車)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)

【生没】 ?~217年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「応瑒伝」あり。

著作の志は果たせず。「建安七子(けんあんのしちし)」のひとり

父は応シュン(おうしゅん。王+旬)だが、母は不詳。応奉(おうほう)は祖父。応劭(おうしょう)は伯父。応璩(おうきょ)は弟。

応瑒は曹操(そうそう)の招聘(しょうへい)に応じて「丞相掾属(じょうしょうのえんぞく)」となる。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

のちに平原侯(へいげんこう。211~214年)の曹植(そうしょく)の「庶子(しょし。官名)」に転じ、さらに五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう。211~217年)の曹丕(そうひ)の「文学(ぶんがく。官名)」に移った。

曹丕や曹植が文学を愛好していたため、応瑒も王粲・徐幹(じょかん)・陳琳(ちんりん)・阮瑀(げんう)・劉テイ(りゅうてい。木+貞)らとともに友人として親愛されたという。

217年、疫病の大流行に遭い死去。この年には王粲・徐幹・陳琳・劉テイも相次いで亡くなっている(阮瑀は212年没)。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

『三国志』(魏書・王粲伝)に付された「呉質伝(ごしつでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』には、曹丕が呉質に送った手紙の中で、応瑒らについて論評している記事がありました。

それによると、「徳レン(応瑒のあざな)はいつも強い著作の志を抱いており、彼の才能や学問は書物を著すに十分だったが、その立派な志は完遂されなかった」とし、「誠に痛惜すべきである」と述べています。

祖父の応奉や伯父の応劭が数多くの著作を残していますし、応瑒にもいろいろ書きたいことがあったと思います。また、それを成し遂げる能力も十分に備えていたようですね。なお本伝によると、応瑒は数十編の文と賦(ふ)を著したということでした。

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