【姓名】 孫瑜(そんゆ) 【あざな】 仲異(ちゅうい)
【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)
【生没】 177~215年(39歳)
【吉川】 第178話で初登場。
【演義】 第057回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫静伝(そんせいでん)』に付された「孫瑜伝」あり。
孫静の息子
父は孫静だが、母は不詳。孫暠(そんこう)は兄で、孫皎(そんこう)・孫奐(そんかん)・孫謙(そんけん)は弟。
孫弥(そんび)・孫熙(そんき)・孫燿(そんよう)・孫曼(そんまん)・孫紘(そんこう)という5人の息子がいた。
初め孫瑜は、恭義校尉(きょうぎこうい)として兵を預かることになった。
当時の幕客や部将には江西(こうせい。合肥〈ごうひ〉・寿春〈じゅしゅん〉一帯)の出身者が多かったが、孫瑜は己をむなしくして丁重にもてなすことで歓心を得る。
204年、孫瑜が丹楊太守(たんようたいしゅ)になると、彼を慕って1万余人が集まった。後に綏遠将軍(すいえんしょうぐん)を加官された。
206年、周瑜(しゅうゆ)とともに、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)が立て籠もる麻(ま)と保(ほ)の砦を討ち破る。
212年、孫権(そんけん)に付き従い、濡須(じゅしゅ)で曹操(そうそう)と対峙(たいじ)する。
このとき、積極的に戦おうとする孫権に自重を説いたが聞き入れられず、結局は何の戦果も上げられなかった。
孫瑜は奮威将軍(ふんいしょうぐん)に昇進し、丹楊太守を兼ねたまま、駐屯地を溧陽(りつよう)から牛渚(ぎゅうしょ)へ移した。
永安(えいあん)の饒助(じょうじょ)を襄安県長(じょうあんけんちょう)に、無錫(ぶせき)の顔連(がんれん)を居巣県長(きょそうけんちょう)に、それぞれ任ずると、このふたりに命じ、九江(きゅうこう)・廬江(ろこう)の両郡を孫権に帰属させることに成功した。
また孫瑜は、学問に深く通じた済陰(せいいん)の馬普(ばふ)を礼遇し、配下の部将や官吏の子弟ら数百人を学ばせる。やがて学官を設け、自身も講義に臨席した。
このころ、ほかの将軍は軍務に励む者ばかりだったが、孫瑜は古典を愛好し、遠征の途中でも書物を誦(しょう)する声が絶えなかった。
215年に39歳で死去。5人の息子のうち、孫曼は将軍まで昇進して侯に封ぜられた。
管理人「かぶらがわ」より
孫瑜は孫静の次男ですから、長男(兄)の孫暠を先に採り上げようかと思いましたが、孫暠のほう(弟の孫謙も)は伝が立てられていないのですよね。
弟かつ付伝であっても、伝が立てられている人物を優先しようと思います。順番は前後しますが、孫暠や孫謙も後から採り上げますのでご了解ください。
孫瑜は周瑜も認める良将だったようです。
『三国志』(呉書・周瑜伝)では、210年に周瑜が孫権に蜀(しょく)取りを進言した際、「孫瑜とともに蜀を奪取したい」と述べています。
「劉璋(りゅうしょう)から蜀を奪った後、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)も併吞し、孫瑜を留めて守りを固めてもらえば、馬超(ばちょう)との同盟もうまく結ぶことができる」と。
そして「(周瑜が)蜀から戻り、孫権とともに襄陽(じょうよう)を根拠地として曹操を追い詰めていけば、北方制覇も夢ではないのだ」とも。
孫権は進言を容れましたが、江陵(こうりょう)に戻って遠征の準備に取りかかろうとした周瑜は、その道中の巴丘(はきゅう)で病死。蜀への遠征は実現しませんでした。
なお、周瑜の進言の中では孫瑜が「奮威(奮威将軍)」と呼ばれているので、上で挙げた孫瑜が奮威将軍に昇進した時期は、212年より前(210年ごろ?)かもしれません。
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