徐氏(じょし)B ※孫権(そんけん)の妻、徐夫人(じょふじん)

【姓名】 徐氏(じょし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第108話で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫権徐夫人伝(そんけんじょふじんでん)』あり。

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呉(ご)の孫権の側室、徐夫人

父は徐琨(じょこん)だが、母は不詳。

祖父の徐真(じょしん)は孫堅(そんけん)と親しかったため、その妹を娶(めと)った。徐真と孫堅の妹との間に生まれたのが、父の徐琨である。徐矯(じょきょう)は兄で、徐祚(じょそ)は弟。

徐氏は初め同郡の陸尚(りくしょう)に嫁いだが、先に夫を亡くす。

その後、孫権が討虜将軍(とうりょしょうぐん)として呉郡にいたとき(200年ごろか)妃(きさき)に迎えられた。

209年に孫権の長男として生まれた孫登(そんとう)は、生母の身分が卑しかった。そこで孫権は、徐氏に孫登の養育を任せた。

221年に孫権は本拠地を武昌(ぶしょう)へ移したが、徐氏は嫉妬深いということで呉郡に留められた。

229年に孫権が呉の帝位に即き、孫登が皇太子に立てられると、群臣はそろって徐氏を皇后に立てるよう要請した。

しかし、孫権には寵愛する歩氏(ほし)を立てたいとの気持ちがあったため、徐氏を皇后に立てることを認めなかった。その後、徐氏は病死(時期は不明)した。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

『三国志』(呉書・孫登伝)には、孫登が徐氏にひとかたならぬ恩義を感じていた様子が書かれています。

徐氏が嫉妬深いことを理由に呉郡に留められた後、歩氏が孫権の寵愛を集めました。

孫登は歩氏からの賜り物を辞退せず、丁寧にお辞儀をして受け取ったそうです。一方、呉郡の徐氏の使いが来て衣服を贈られると、必ず沐浴(もくよく)し、身を清めてから着たのだとか。

また、孫登が皇太子に立てられることになった際の孫権とのやり取りでは、「孫登が孫権に『私を皇太子に立てるおつもりなら、まずその母を皇后に立てられるべきです』と述べた」とあり、孫権が孫登に母の所在を尋ねると、「孫登は『呉の街におります』と答え、孫権も思わず黙り込んでしまった」のだと。

徐氏は嫉妬深かったとありますが、孫権から養育を任された孫登には愛情を注いだようですね。

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