万彧(ばんいく)

【姓名】 万彧(ばんいく) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~272年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。

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己の栄達をもくろみ、孫晧(そんこう)の即位に暗躍

父母ともに不詳。

264年7月、孫休(そんきゅう)が崩ずると、左典軍(さてんぐん)の万彧は、かつて烏程県令(うていけんれい)を務めたときに親密になった孫晧の即位を画策する。

これまでも万彧は、丞相(じょうしょう)の濮陽興(ぼくようこう)や左将軍(さしょうぐん)の張布(ちょうふ)に、孫晧の見識と人柄の素晴らしさを熱心に吹き込んでいだ。

孫晧は、258年10月に孫休から烏程侯(うていこう)に封ぜられており、万彧は任地で孫晧と親しくなった。

同年8月、孫晧が帝位に即いたものの、ほどなく濮陽興と張布は彼の行いを見るにつけ、帝位に迎えたことを悔やみ始める。万彧は、さっそくこの件を讒言(ざんげん)した。

同年11月、孫晧は朝会の席で濮陽興と張布を捕らえ、広州(こうしゅう)へ配流する。さらに道中でふたりを始末させ、その三族も皆殺しにした。

266年8月、万彧は常侍(じょうじ)から右丞相(ゆうじょうしょう)に昇進。

翌267年、万彧は衛将軍(えいしょうぐん)の滕牧(とうぼく)に代わって武昌(ぶしょう)に赴任し、270年春に建業(けんぎょう)へ戻る。

272年、万彧は孫晧の譴責(けんせき)を受けて憂死し、その子弟は廬陵(ろりょう)へ移されたという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)によるもの。

孫晧の暴政が呉の滅亡を決定づけたことは間違いありませんが、彼の即位にあたって、万彧の動きも大きな影響を与えました。

蜀(しょく)の劉禅(りゅうぜん)に仕えた黄皓(こうこう)のような印象があります。

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