【姓名】 曹爽(そうそう) 【あざな】 昭伯(しょうはく)
【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)
【生没】 ?~249年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹真伝(そうしんでん)』に付された「曹爽伝」あり。
曹真の息子
父は曹真だが、母は不詳。曹羲(そうぎ)・曹訓(そうくん)・曹則(そうそく)・曹彦(そうげん)・曹皚(そうがい)は弟。
曹爽は若いころ帝族として謹厳で重厚な人柄だったため、東宮(とうぐう)にいた曹叡(そうえい)から寵愛されていた。
226年に曹叡が帝位を継ぐと、散騎侍郎(さんきじろう)、城門校尉(じょうもんこうい)、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)などを歴任する。
231年3月に曹真が死去したため跡を継ぐ。
238年12月には病床の曹叡から大将軍(だいしょうぐん)に任ぜられ、節(せつ。権限を示すしるし)と鉞(えつ。まさかり。軍権の象徴)を貸し与えられたうえ、都督中外諸軍事(ととくちゅうがいしょぐんじ)・録尚書事(ろくしょうしょじ)となった。
239年に曹芳(そうほう)が帝位を継ぐと、司馬懿(しばい)を太傅(たいふ)に祭り上げたうえ、自分の弟たちを要職に就けて実権を握った。
また、曹叡の時代(226~239年)に「うわべばかり華やかで内実に乏しい者」として退けられていた、何晏(かあん)・鄧颺(とうよう)・李勝(りしょう)、丁謐(ていひつ)・畢軌(ひっき)らを腹心として重用する。
曹爽はこうした腹心と好き放題に振る舞い、数々の悪事を働いた。
244年には蜀(しょく)の討伐を試みるが、得るところなく帰還。
249年1月に司馬懿がクーデターを発動(正始〈せいし〉の政変)すると、曹爽は迷った末に抵抗しなかった。結局、弟たちや腹心ともども大逆不道の罪で処刑され、その三族(父母・妻子・兄弟姉妹。異説もある)も皆殺しになった。
この後、嘉平(かへい)年間(249~254年)に功臣の家の祭祀(さいし)を継がせることになり、曹真の族孫の曹熙(そうき)が新昌亭侯(しんしょうていこう)に封ぜられた。このとき曹熙は300戸を賜り、曹真の家の祭祀を奉ずることになった。
主な経歴
生年は不詳。
-226年-
この年、曹叡が帝位を継ぐと散騎侍郎に任ぜられた。その後も昇進を重ねて城門校尉となり、散騎常侍(さんきじょうじ)を加官された。やがて武衛将軍に転ずるなど、とりわけ曹叡の寵遇を受けた。
-238年-
12月、病床の曹叡から大将軍に任ぜられ、節と鉞を貸し与えられたうえ、都督中外諸軍事・録尚書事となる。
この裏には、曹叡の寵愛を受けていた中書監(ちゅうしょかん)の劉放(りゅうほう)と中書令(ちゅうしょれい)の孫資(そんし)による画策があった。
ともあれ曹爽は太尉(たいい)の司馬懿とともに遺詔を受け、まだ幼い曹芳を補佐することになった。
-239年-
1月、曹芳が帝位を継ぐと侍中(じちゅう)を加官され、武安侯(ぶあんこう)に移封されて封邑(ほうゆう)1万2千戸を賜った。
さらに「剣を帯び、履(くつ)をはいたまま上殿し、宮中でも小走りをしなくてよく、謁見の取り次ぎの際に実名を呼ばれない」という特別待遇も賜った。
2月、丁謐の進言を容れて曹芳に上奏し、司馬懿を太傅に祭り上げる。その一方、自分の弟たちを要職に就ける。
曹羲は中領軍(ちゅうりょうぐん)に、曹訓は武衛将軍に、曹彦は散騎常侍・侍講(じこう)に、それぞれ任ぜられ、ほかの弟も列侯(れっこう)に封ぜられて天子(てんし)の侍従を務めた。
-244年-
2月、鄧颺らの進言を容れ、曹芳から蜀討伐の詔(みことのり)を得る。司馬懿はこの動きを抑えることができなかった。
閏3月?、いったん曹爽は長安(ちょうあん)に入り、6、7万の軍勢をひきいて駱谷(らくこく)から蜀に進入する。
このとき関中(かんちゅう)の民や氐族(ていぞく)・羌族(きょうぞく)は軍需物資の輸送を賄いきれず、多くの牛馬や騾馬(ラバ)・驢馬(ロバ)が死んでしまった。漢族(かんぞく)も異民族も、道中で大声を上げて泣き叫ぶというありさまだった。
駱谷に入って数百里進むと、蜀の王平(おうへい)が山を利用して守りを固めていたため、それ以上は進軍できなくなった。
参軍(さんぐん)の楊偉(ようい)から現状を説かれて帰還を勧められると、曹爽は不快に思いながらも彼の意見に従い、5月には帰還した。
-248年-
冬、李勝が荊州刺史(けいしゅうしし)として赴任するにあたり、司馬懿のもとを訪ねる。このとき司馬懿は重病と称して衰えた姿を見せた。李勝は見抜くことができず、司馬懿は本当に重病なのだと思い込んだ。
-249年-
1月、曹芳が高平陵(こうへいりょう。曹叡の陵)に参詣した際、曹爽も弟たちとともに随行する。
その隙を突き司馬懿がクーデターを発動。兵馬を指揮して武器庫を占拠した後、城外に出て洛水(らくすい)の浮橋の辺りに駐屯し、曹芳に曹爽の罪状を上奏する。
曹爽は司馬懿の上奏文を受け取ったものの、曹芳には見せず、ここで進退窮まってしまう。
ほどなく大司農(だいしのう)の桓範(かんはん)が詔だと偽り、平昌門(へいしょうもん)を開かせて城外に出、曹爽のもとへ駆けつける。
桓範から「天子(曹芳)を許昌(きょしょう)へお遷しし、都の外にいる軍勢を招集されますように」と進言されたが、曹爽は決断できなかった。
一方で侍中の許允(きょいん)や尚書(しょうしょ)の陳泰(ちんたい)らは、「ご自分から罪に服されたほうがよい」と進言した。
曹爽はこれを容れ、ふたりを司馬懿のもとへ遣わし、死罪に処してほしいと願い出たうえ、司馬懿の上奏文を曹芳に届けた。曹爽兄弟は罷免され、侯の身分のまま私邸に帰ることになった。
だが結局、曹爽は弟たちとともに大逆不道の罪にあたるとして処刑され、三族も皆殺しにされた。
管理人「かぶらがわ」より
父の曹真については、『三国志演義』の創作ぶりに腹立たしさすら覚えましたが、跡継ぎだった曹爽は駄目っぽいですね。
とはいえ本伝によると、「初め曹爽は、司馬懿のほうが年齢や功績が上だったため、いつも父のように仕え、独断で事を行おうとはしなかった」ということです。
「ところが何晏らを用いるようになると、自分の腹心を要職に就け、政治的な案件が司馬懿を経由することはまれになった。こうしたことから、司馬懿は病と称して曹爽を避けるようになった」のだと。
で、曹爽一味の悪事が書ききれないほど載せられていました。
「何晏らは、曹爽の権勢を笠に着て土地や物資を奪ったり、賄賂を受け取ったり、無実の者を罪に陥れたりした」
「曹爽の食事や飲み物、乗り物や衣服は天子の御物をまねたもので、尚方(しょうほう。天子の刀剣や器具を製作する役所)で制作された珍しい品々が屋敷に満ちていた」
「また大勢の妻妾(さいしょう)を置き、こっそり先帝(曹叡)の才人(さいじん。女官の位階)から7、8人を奪い、将軍付きの下吏、楽師に楽団、良家の子女33人を手に入れて自分付きの芸人とした」
「偽の詔を作り、57人もの才人を徴発して鄴台(ぎょうだい)に送り込み、先帝の倢伃(しょうよ。女官の位階)に芸を仕込ませたりもした」
「勝手に太楽(たいがく。音楽をつかさどる役所)の楽器や武庫の天子直属の兵士を自分のものにしたり、四方に美しい模様の彫刻を施した地下室を作らせ、ここで何晏らと宴会を催しては酒を飲み、音楽を演奏させていた」といった具合。
弟の曹羲は心配し、たびたび兄の曹爽を諫めたものの、聞き入れられることはありませんでした。そして、この間に司馬懿は内々で曹爽への備えを固めていったのだと。
248年冬の司馬懿の芝居は名場面のひとつだと思います。李勝の目が節穴だったのか? 司馬懿の演義がうますぎたのか? おそらくは後者なのでしょう。
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く郭頒(かくはん)の『世語(せいご。魏晋世語〈ぎしんせいご〉)』には、司馬懿のクーデター時に曹爽が兵を解いた経緯も書かれていました。
「司馬懿は許允と陳泰を遣わし、曹爽の気持ちを解きほぐしつつ説得させた。蔣済(しょうせい)も書簡を送って司馬懿の意向を伝えた」
「その一方、曹爽が信任していた殿中校尉(でんちゅうこうい)の尹大目(いんたいもく)を遣わし、『免官の処分だけで済ませる。洛水に懸けて誓ってもいい』と言わせた。曹爽はその言葉を信じて兵を解いたのである」と。
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