【姓名】 陳矯(ちんきょう) 【あざな】 季弼(きひつ)
【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん)東陽県(とうようけん)
【生没】 ?~237年(?歳)
【吉川】 第168話で初登場。
【演義】 第051回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陳矯伝』あり。
曹氏(そうし)3代(曹操〈そうそう〉・曹丕〈そうひ〉・曹叡〈そうえい〉)に仕えて才能と人柄を評価される、諡号(しごう)は貞侯(ていこう)
父母ともに不詳。息子の陳本(ちんほん)は跡継ぎで、陳騫(ちんけん)も同じく息子。
陳矯は動乱を避けて江東(こうとう)や東城(とうじょう)へ赴いたものの、孫策(そんさく)と袁術(えんじゅつ)の任命を辞退し本郡に帰る。
そして広陵太守(こうりょうたいしゅ)の陳登(ちんとう)から功曹(こうそう)に任ぜられ、友人として厚遇された。
広陵郡が孫権(そんけん)の攻撃を受けて匡奇(きょうき)で包囲されると、陳矯は陳登の命により、曹操のもとへ救援を求めに行く。
曹操は陳矯を評価して留め置こうとしたが、彼は本国の危急を告げに来ただけだと言って辞退する。結局、曹操も要請に応じて救援の兵を出した。
孫権軍が引くと、陳登は敵の虚を突く伏兵を数多く設け、追撃を加えて大破した。
後に陳矯は曹操に召されて司空掾属(しくうえんぞく)となり、相県令(しょうけんれい)、征南長史(せいなんちょうし)、彭城太守(ほうじょうたいしゅ)、楽陵太守(らくりょうたいしゅ)、魏郡西部都尉(ぎぐんせいぶとい)を歴任する。
★曹操が司空を務めていた期間は196~208年。
★213年10月、魏郡は東西の両部に分割され、それぞれに都尉の官が置かれた。
あるとき曲周(きょくしゅう)の民が病気にかかり、その息子は牛を捧げて父の治癒を祈とうした。
★曲周県は鉅鹿郡(きょろくぐん)に属していたが、212年にほかの11県とともに魏郡に併せられた。
県は法にこだわり息子を死刑にしようとしたが、陳矯は孝子だと評価し、上奏文を奉って赦免する。
やがて陳矯は魏郡太守に転任。当時、牢獄(ろうごく)で判決を待つ囚人が4ケタの数に上り、何年も未決のまま放置される者もいた。
陳矯は周(しゅう)や漢(かん)の制度を例に挙げ、刑の軽重を厳格に適用するという建前を重視しすぎ、未決のまま長期間にわたって拘束される者が出る現状は間違っていると考える。
そこですべての罪状を自分で調べ、一時に判決を下した。
214年?、曹操が大軍をひきいて東征すると、陳矯は中央へ入って丞相長史(じょうしょうちょうし)となる。
★曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。
軍が帰還すると陳矯は再び魏郡太守となり、次いで西曹属(せいそうぞく。丞相西曹属)に転じた。
翌215年、陳矯は曹操に付き従って漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を降し、帰還後に尚書(しょうしょ)となる。
220年1月、曹操が洛陽(らくよう)で崩ずると群臣は常例にこだわり、太子(曹丕)の即位は天子(てんし。献帝〈けんてい〉)の詔(みことのり)を待ってからにすべきだと主張した。
しかし陳矯は、王(魏王〈ぎおう〉の曹操)が外(洛陽。魏王宮は鄴〈ぎょう〉にあった)でお亡くなりになり天下が恐慌を来しているから、太子は喪を断って即位されるべきだと述べる。
さらに、もし弟君(曹彰〈そうしょう〉)との間で争いが起これば、国家は危機に陥る、と懸念を示す。
陳矯の意見に従い、すぐに必要な官をそろえて儀礼が整えられ、これらの作業は1日で完了した。
翌朝、王后(曹操の正室)の卞氏(べんし)の命をもって太子に策(命令書)を賜るという形で即位させ、大赦を行った。
曹丕はこう言って陳矯を評価した。
「陳季弼(季弼は陳矯のあざな)は国の重大事に臨み、人並み優れた才略を発揮した。まことに一時代の俊傑である」
同年10月、曹丕が帝位に即くと、陳矯は吏部(りぶ。吏部尚書)に転任。後に高陵亭侯(こうりょうていこう)に封ぜられ、尚書令(しょうしょれい)に昇進する。
226年、曹叡が帝位を継ぐと東郷侯(とうきょうこう)に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は600戸だった。
ある日、曹叡が御車で尚書の役所を訪れ、自ら文書を調べて回ると言いだす。
陳矯は、それは陛下がなさるべきことではなく、私の職責であると応えたうえ、もし私がこの職務にふさわしくないと思われるなら罷免してほしいと述べた。
曹叡は恥じ入り、御車を巡らせて引き返した。
後に陳矯は侍中(じちゅう)・光禄大夫(こうろくたいふ)の官位を加えられる。
237年6月、陳矯は司徒(しと)に昇進。だが、同年7月に死去して貞侯と諡(おくりな)され、息子の陳本が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』によると――。
もともと陳矯は劉氏(りゅうし)の息子で、家を出て舅(おじ。母の兄弟)を継ぎ、同族の劉氏の娘を娶(めと)ったそうです。
徐宣(じょせん)はこのこと(同姓不婚の原則に反する行い)を非難し続け、朝廷でも過失を論じていました。
しかし曹操は、陳矯の才能や器量を惜しんで擁護し、次のような命令を下しました。
「動乱以来、風俗や教化は衰微した。誹謗(ひぼう)の言をもって人を評価してはならない。建安(けんあん)5(200)年より前のことについてはいっさい問題にしない。それ以前のことをあげつらう者は、その罪をもって処罰する」
『三国志演義』や吉川『三国志』ではイマイチの役回りの陳矯でしたが、史実はだいぶ違うようです。
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