【姓名】 韓綜(かんそう) 【あざな】 ?
【原籍】 遼西郡(りょうせいぐん)令支県(れいしけん)
【生没】 ?~252年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第108回で初登場。
【正史】 登場人物。
父の功績に泥を塗った不肖の息子
父は韓当(かんとう)だが、母は不詳。
226年、韓綜は、韓当が死去したため跡を継ぎ、石城侯(せきじょうこう)に封ぜられた。
この年、孫権(そんけん)は魏(ぎ)の石陽(せきよう)へ軍勢を進めたが、父の喪に服していた韓綜は武昌(ぶしょう)に留まる。
だが、韓綜は服喪中にもかかわらず淫行にふけり、無法を働いた。孫権は亡き韓当に免じてとがめずにいたが、韓綜は内心で不安を抱く。
翌227年、韓綜は父の柩(ひつぎ)を車に載せると、母や家族、部曲(ぶきょく。私兵)ら男女数千人を引き連れて魏へ逃げ込む。そして曹叡(そうえい)から将軍に任ぜられ、広陽侯(こうようこう)に封ぜられた。
その後、韓綜は呉(ご)の辺境地帯を襲っては住民を殺害したが、252年、東興(とうこう)の戦役で魏軍の先鋒を務めた際に戦死した。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・韓当伝)によるものです。
また、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によると、韓綜が魏への逃亡を企てた際、配下の者たちが自分の考えに従わないことを心配します。
そこで韓綜は、皆を豊かにするためと称して、配下の者たちに追い剝ぎを働くよう唆しました。
その後、追い剝ぎの件で孫権から問責の詔(みことのり。この時点で詔というのは不適切な表現だと思われる)が届いたと吹聴し、みな逮捕されて裁判にかけられると不安を煽(あお)ります。
すると側近らも呉を去ることに賛同したので、ついに具体的な計画を立てるに至ったということでした。
さらに韓綜は、父の葬儀を執り行うとして姑(おば)や姉妹を呼び集め、彼女らと自分の寵妾(ちょうしょう)たちを将吏や親しい者に宛てがったうえ、牛を殺して酒を飲み、皆で血をすすり合って盟約を結んだのだとか――。
あの韓当の跡継ぎとも思えない、身勝手で性悪な息子ですね。
コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます