郝普(かくふ)

【姓名】 郝普(かくふ) 【あざな】 子太(したい)

【原籍】 義陽郡(ぎようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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軽率な判断により零陵城(れいりょうじょう)を明け渡す

父母ともに不詳。

211年、劉備(りゅうび)が劉璋(りゅうしょう)の要請を受けて益州(えきしゅう)に入った際、郝普は「零陵太守(れいりょうのたいしゅ)」として荊州(けいしゅう)にとどまる。

翌212年、劉備は葭萌(かぼう)から反転し劉璋を攻め、214年には成都(せいと)を攻略。これを受け孫権(そんけん)は諸葛瑾(しょかつきん)を遣わし(劉備に貸した形になっている)荊州の返還を求めたものの、劉備は返還の意思を見せなかった。

怒った孫権は呂蒙(りょもう)に命じ、長沙(ちょうさ)・零陵・桂陽(けいよう)の3郡を軍勢をもって取り返しにかかる。ほどなく長沙と桂陽は降伏したが、零陵太守の郝普だけは降伏しない。

そこで呂蒙は一計を案じ、郝普の旧友である鄧玄之(とうげんし)を遣って説得を試みたところ、ようやく郝普も開城に応じた。

実は呂蒙が鄧玄之を零陵に遣わす前、孫権から、軍勢を還して益陽(えきよう)の魯粛(ろしゅく)を救援せよとの命令書が届いていた。

しかし呂蒙はそのことを誰にも話さず、夜中に部将たちを集めて作戦を授け、夜明けとともに零陵城を攻めるよう命じたうえ、鄧玄之に郝普の説得を頼んだ。

開城後、郝普は呂蒙に孫権の命令書を見せられ、すでに劉備が軍勢をひきいて公安(こうあん)まで戻っており、さらに関羽(かんう)も益陽に布陣していることを知らされる。彼は己の判断を恥じ、床に突っ伏したという。

その後、郝普は孫権に仕え「廷尉(ていい)」まで昇った。

230年、魏(ぎ)の隠蕃(いんはん)が曹叡(そうえい)の意向を受け呉(ご)へ偽降してくると、郝普は左将軍(さしょうぐん)の朱拠(しゅきょ)らとともに隠蕃の才能をたたえ、特に親しく付き合った。

だが、やがて隠蕃は謀反を起こそうとして誅殺され、郝普も問責を受けた末に自殺(時期は不明)したという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呂蒙伝)などによるものです。

215年、孫権は劉備の申し出を受け入れ、湘水(しょうすい)を境に荊州をふたつに分けて統治することで合意しました。

ただ、この辺りのくだりには「劉備請盟、権(孫権)乃帰普(郝普)等、割湘水、以零陵還之」という記事があったのですけど……。これは郝普がいったん劉備のところへ帰されたという意味なのでしょうか? ここだけはどうもよくわかりませんでした。

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人物データ 呉の重臣
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