劉禅(りゅうぜん) ※あざなは公嗣(こうし)、晋(しん)の安楽思公(あんらくしこう)

【姓名】 劉禅(りゅうぜん) 【あざな】 公嗣(こうし)

【原籍】 涿郡(たくぐん)涿県(たくけん)

【生没】 207~271年(65歳)

【吉川】 第122話で初登場。
【演義】 第034回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・後主伝(こうしゅでん)』あり。

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蜀(しょく)の第2代皇帝

父は劉備(りゅうび)、母は甘氏(かんし)。

幼名は阿斗(あと)。異母弟に劉永(りゅうえい)と劉理(りゅうり)がおり、ほかに異母姉がふたりはいた。

劉璿(りゅうせん)・劉瑶(りゅうよう)・劉琮(りゅうそう)・劉瓚(りゅうさん)・劉諶(りゅうしん)・劉恂(りゅうじゅん)・劉虔(りゅうけん)という7人の息子を儲けた。

ほかにも諸葛瞻(しょかつせん)・関統(かんとう)・費恭(ひきょう)に、それぞれ嫁いだ娘がいたことがうかがえる。

223年5月に帝位を継いだが、263年に魏(ぎ)の曹奐(そうかん)に降伏。洛陽(らくよう)へ移住して安楽公(あんらくこう)に封ぜられた。

その後、271年に洛陽で死去。本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『蜀記(しょくき)』によると、思(し。安楽思公)と諡(おくりな)され、息子の劉恂が跡を継いだという。

主な経歴

-207年(1歳)-
この年、荊州(けいしゅう)で誕生。

-219年(13歳)-
7月、劉備が漢中王(かんちゅうおう)となった際、王太子に立てられる。

-221年(15歳)-
5月、4月に帝位に即いた劉備から皇太子に立てられる。

-223年(17歳)-
4月、劉備が崩御(ほうぎょ)。

5月、父の跡を継いで帝位に即く。大赦を行い、「章武(しょうぶ)」を「建興(けんこう)」と改元。

夏、牂牁太守(そうかたいしゅ)の朱褒(しゅほう)が郡を擁して反乱を起こす。

11月、鄧芝(とうし)を呉(ご)へ遣わし、好(よしみ)を固める。

この年、張氏(ちょうし)を皇后に立てた。

-224年(18歳)-
春、農耕に努めて穀物を増産。越嶲(えっすい)への通路にあたる関門を閉ざし、民を休息させる。

この年、息子の劉璿が生まれた。

-225年(19歳)-
3月、出兵を許可。丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)が南方の4郡(益州〈えきしゅう〉・永昌〈えいしょう〉・牂牁・越嶲)を征討し、この4郡が平定される。諸葛亮は12月に成都へ帰還した。

これを受け、益州郡を建寧郡(けんねいぐん)と改め、建寧と永昌の両郡から一部を分割して雲南郡(うんなんぐん)を設置。また、建寧と牂牁の両郡から一部を分割して興古郡(こうこぐん)を設置した。

-226年(20歳)-
春、都護(とご)の李厳(りげん)が永安(えいあん)から帰還。江州(こうしゅう)に駐留して大規模な城を築く。

-227年(21歳)-
春、出兵を許可。丞相の諸葛亮が出陣して漢中に駐屯。その後、沔水(べんすい)の北にあたる陽平郡(ようへいぐん)の石馬県(せきばけん)に陣を布(し)く。

-228年(22歳)-
春、出兵を許可。諸葛亮が祁山(きざん)へ向かったものの、勝利は得られず。

冬、出兵を許可。諸葛亮が再び散関(さんかん)を出て陳倉(ちんそう)を包囲したものの、兵糧が尽きたため撤退した。

-229年(23歳)-
春、出兵を許可。諸葛亮が陳式(ちんしょく)を遣わし、武都(ぶと)と陰平(いんぺい)の両郡を平定した。

6月、4月に帝号を称した呉の孫権(そんけん)と、天下を分割統治する盟約を結ぶ。

-230年(24歳)-
秋、魏の司馬懿(しばい)・張郃(ちょうこう)・曹真(そうしん)が漢中へ侵攻。丞相の諸葛亮が城固(じょうこ)・赤阪(せきはん)で待ち受けるも、大雨のため魏軍が撤退した。

この年、出兵を許可。魏延(ぎえん)が、魏の雍州刺史(ようしゅうしし)の郭淮(かくわい)を陽谿(ようけい)で撃破した。

この年、異母弟で魯王(ろおう)の劉永を甘陵王(かんりょうおう)に、同じく異母弟で梁王(りょうおう)の劉理を安平王(あんぺいおう)に、それぞれ移封した。

-231年(25歳)-
2月、出兵を許可。諸葛亮が再び祁山を包囲する。このとき初めて木牛(ぼくぎゅう)を輸送に用いた。魏は司馬懿と張郃が祁山を救援した。

6月、諸葛亮は兵糧が尽きたため撤退し、追撃してきた張郃を青封(せいほう)で討ち取る。

8月、都護の李平(りへい。李厳)を罷免し、梓潼郡(しとうぐん)に配流。

-232年(26歳)-
この年、諸葛亮が兵士を休養させ、黄沙(こうさ)で農耕に努めて流馬木牛(りゅうばぼくぎゅう)を完成。兵士の教練や演習を行った。

-233年(27歳)-
冬、諸葛亮が斜谷口(やこくこう)に兵糧を集め、斜谷の邸閣(食糧貯蔵庫)を整備する。

この年、南方の蛮族の劉冑(りゅうちゅう)が反乱。将軍の馬忠(ばちゅう)を遣わして平定させた。

-234年(28歳)-
2月、出兵を許可。諸葛亮が斜谷から出撃し、このとき初めて流馬を輸送に用いる。

8月、諸葛亮が渭浜(いひん)で陣没し、征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)の魏延と丞相長史(じょうしょうちょうし)の楊儀(ようぎ)が軍の指揮権を争う。敗走した魏延は斬られ、楊儀が軍勢を統率して成都へ帰還。劉禅は大赦を行う。

?月、左将軍(さしょうぐん)の呉壱(ごいつ)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)・仮節(かせつ)・漢中都督(かんちゅうととく)に、丞相留府長史(じょうしょうりゅうふちょうし)の蔣琬(しょうえん)を尚書令(しょうしょれい)に、それぞれ任じ、国事を統括させる。

-235年(29歳)-
1月、中軍師(ちゅうぐんし)の楊儀を罷免し、漢嘉郡(かんかぐん)に配流する。

4月、蔣琬を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。

-236年(30歳)-
4月、湔(せん)へ行幸。観阪(かんはん)に登って汶水(ぶんすい)の流れを見、10日して成都へ還幸する。

この年、武都の氐族(ていぞく)の王である苻健(ふけん)と氐族の民400戸余りを、広都(こうと)へ移住させた。

-237年(31歳)-
6月、皇后の張氏が崩御。

-238年(32歳)-
1月、先后の妹の張氏を皇后に立てる。大赦を行い、「建興」を「延熙(えんき)」と改元。さらに息子の劉璿を皇太子に立て、同じく息子の劉瑶を安定王(あんていおう)に封じた。

11月、出兵を許可。大将軍の蔣琬が出陣して漢中に駐屯。

-239年(33歳)-
3月、蔣琬を大司馬(だいしば)に任ずる。

-240年(34歳)-
春、張嶷(ちょうぎょく)を越嶲太守(えっすいたいしゅ)に任じ、郡内の平定を命ずる。

-243年(37歳)-
10月、大司馬の蔣琬の帰還を許可。蔣琬は漢中から帰途に就き、涪(ふう)に留まる。

11月、大赦を行う。また、費禕(ひい)を大将軍に任ずる。

-244年(38歳)-
閏03月?、魏の大将軍の曹爽(そうそう)と夏侯玄(かこうげん)らが漢中へ侵攻。

鎮北大将軍(ちんぼくだいしょうぐん)の王平(おうへい)が興勢(こうせい)で抵抗し、大将軍の費禕が諸軍をひきいて救援に駆けつけたため、魏軍は撤退。費禕は9月に成都へ帰還した。

4月、異母弟で安平王の劉理が薨去(こうきょ)。

-245年(39歳)-
8月、皇太后の呉氏(ごし)が崩御。

-246年(40歳)-
秋、大赦を行う。

-247年(41歳)-
この年、涼州(りょうしゅう)の蛮王(ばんおう)の白虎文(はくこぶん)と治無戴(ちぶたい)らが、配下をひきいて降伏してくる。衛将軍(えいしょうぐん)の姜維(きょうい)を迎えに遣わし、彼らを慰撫(いぶ)させ、繁県(はんけん)に住むことを許した。

この年、汶山郡(ぶんざんぐん)平康(へいこう)の蛮族が反乱を起こす。姜維に討伐を命じて平定した。

-248年(42歳)-
5月、出兵を許可。大将軍の費禕が出陣して漢中に駐屯。

秋、涪陵郡(ふうりょうぐん)の属国都尉(ぞっこくとい)の管轄下にある民が反乱。車騎将軍の鄧芝に討伐を命じて平定する。

-249年(43歳)-
1月、魏の右将軍(ゆうしょうぐん)の夏侯霸(かこうは)らが来降する。

4月、大赦を行う。

秋、出兵を許可。衛将軍の姜維が魏の雍州を攻めたものの、勝利を得られずに帰還。将軍の句安(こうあん)と李韶(りしょう)が魏に降る。

-250年(44歳)-
この年、出兵を許可。姜維は再び西平(せいへい)へ出撃したが、勝利を得られずに帰還。

-251年(45歳)-
冬、大赦を行う。

-252年(46歳)-
この年、息子の劉琮を西河王(せいかおう)に封じた。

-253年(47歳)-
4月、出兵を許可。衛将軍の姜維が魏の南安(なんあん)を包囲したが、勝利を得られずに帰還。

-254年(48歳)-
?月、大赦を行う。

6月、出兵を許可。姜維が隴西(ろうせい)へ出撃。

冬、姜維は狄道(てきどう)・河間(かかん)・臨洮(りんとう)の3県を攻略し、その地の住民を緜竹県(めんちくけん)と繁県へ移住させる。

-255年(49歳)-
夏、出兵を許可。姜維が狄道に出撃し、洮西(とうせい)で魏の雍州刺史(ようしゅうしし)の王経(おうけい)を大破。王経は狄道城へ退却し、姜維も引き揚げて鍾題(しょうだい)に留まった。

-256年(50歳)-
春、姜維を大将軍に任ずる。

8月、出兵を許可。姜維は、上邽(じょうけい)で魏の大将軍の鄧艾(とうがい)に敗れ、軍勢を撤退させて成都へ戻った。

この年、息子の劉瓚を新平王(しんぺいおう)に封じた。

この年、大赦を行った。

-257年(51歳)-
この年、魏の大将軍の諸葛誕(しょかつたん)が寿春(じゅしゅん)で反乱を起こす。これを受けて姜維が駱谷(らくこく)から出陣し、芒水(ぼうすい)に至った。

この年、大赦を行った。

-258年(52歳)-
この年、史官から景星(おめでたい星)の出現が上言されたため、大赦を行い、「延熙」を「景耀(けいよう)」と改元した。

-259年(53歳)-
6月、息子の劉諶を北地王(ほくちおう)に、劉恂を新興王(しんこうおう)に、劉虔を上党王(じょうとうおう)に、それぞれ封ずる。

-260年(54歳)-
9月、亡き将軍の関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・龐統(ほうとう)・黄忠(こうちゅう)に諡号(しごう)を追贈する。

-261年(55歳)-
3月、亡き将軍の趙雲(ちょううん)に諡号を追贈する。

10月、大赦を行う。

-262年(56歳)-
1月、息子で西河王の劉琮が薨去。

この年、出兵を許可。姜維が侯和(こうか)に出撃したものの、魏の鄧艾に敗れる。姜維は帰還して沓中(とうちゅう)に留まった。

-263年(57歳)-
夏、魏が大いに軍勢を起こし、複数の街道から侵攻してくる。左右の車騎将軍の張翼(ちょうよく)と廖化(りょうか)、輔国大将軍(ほこくだいしょうぐん)の董厥(とうけつ)らを遣わして迎撃にあたらせる。

8月、大赦を行い、「景耀」を「炎興(えんこう)」と改元する。

11月、光禄大夫(こうろくたいふ)の譙周(しょうしゅう)の進言を容れ、魏の曹奐に降る。息子で北地王の劉諶だけは、国の滅亡を悼み、妻子を殺してから自殺した。

-264年(58歳)-
3月、洛陽へ到着した後、魏の曹奐から安楽公に封ぜられる。

-271年(65歳)-
この年、洛陽で死去。

管理人「かぶらがわ」より

劉備の跡を継いで帝位に即くも、目立った実績を上げられないまま魏に降伏。確かに明敏な君主には見えません。

ですが、劉禅には自分の実力をわきまえていたところが感じられ、暗愚とは決めつけられないとも思います。

そもそも劉禅の即位時の国力をもって、蜀の領土を保つというならともかく、どうやって魏を倒せばいいのでしょうか?

もし劉禅が、いくらか用兵に自信を持っていたりして、劉備のように自ら軍勢を指揮して出兵するなどということになっていたら、蜀の滅亡はかなり早まっていたのでは?

先代からの旗印である、漢室再興が下ろせないのは相当な重荷です。諸葛亮の存命中でさえ果たせなかったのに、魏への出兵をやめるわけにいかないとは……。

魏に降って洛陽へ移住した後、司馬昭(しばしょう)に「ここでの暮らしは楽しいので、蜀を思い出すことはありません」などと言って馬鹿にされたのも、劉禅流の保命策でしょう。

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