曹洪(そうこう) ※あざなは子廉(しれん)、魏(ぎ)の楽城恭侯(らくじょうきょうこう)

【姓名】 曹洪(そうこう) 【あざな】 子廉(しれん)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~232年(?歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第005回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹洪伝』あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の従弟、楽城恭侯(らくじょうきょうこう)

父母ともに不詳。

息子の曹馥(そうふく)は跡継ぎ。曹震(そうしん)も同じく息子。ほかに美人の娘がおり、荀粲(じゅんさん)に嫁いだ。

190年、曹操が滎陽(けいよう)で董卓(とうたく)配下の徐栄(じょえい)に敗れたとき、曹操は負傷したうえ乗馬を失い、危機に陥った。

すると曹洪が馬から下り、曹操に譲ろうとした。曹操は遠慮したものの、曹洪は「天下に私がいなくとも差し支えはありませんが、あなたがいないわけにはまいりません」と言い、自身は徒歩で付き従った。

やがて曹洪は汴水(べんすい)の岸辺で舟を手に入れ、曹操とともに川を渡り、無事に譙まで帰り着くことができた。

曹洪は揚州刺史(ようしゅうしし)の陳温(ちんおん)と親しかったので、1千余りの私兵をひきいて彼のもとで兵を募った。廬江(ろこう)で2千の精鋭を集めた後、さらに東の丹楊(たんよう)でも数千の兵を集め、龍亢(りょうこう)で曹操と合流した。

その後、呂布(りょふ)・袁紹(えんしょう)・劉表(りゅうひょう)・劉備(りゅうび)らとの戦いで数々の手柄を立てた。

曹丕(そうひ)の時代(220~226年)になると、曹洪は食客が法を犯したことを問罪され、免官のうえ爵位を貶(おと)され、封邑(ほうゆう)も削られた。

しかし曹叡(そうえい)の時代(226~239年)には驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に復し、改めて楽城侯(らくじょうこう)に封ぜられた。

曹洪は232年に死去して恭侯と諡(おくりな)され、息子の曹馥が跡を継いだ。

主な経歴

生年は不詳。

-190年-
この年、曹操が滎陽で董卓配下の徐栄に大敗したが、曹洪は体を張って曹操を守り、無事に譙まで帰り着く。

-194年-
この年、曹操が徐州(じょしゅう)を討伐した際、その隙を突いた張邈(ちょうばく)が兗州(えんしゅう)を挙げて曹操に背き、呂布を迎え入れる。

この時期は大飢饉(だいききん)に見舞われていたが、曹洪は本軍に先行して東平(とうへい)と范(はん)を占拠し、食糧を集めて本軍へ運んだ。曹操は濮陽(ぼくよう)の張邈と呂布を攻め、呂布が敗走した。

曹洪は曹操に背かなかった東阿(とうあ)を拠点とし、済陰(せいいん)・山陽(さんよう)・中牟(ちゅうぼう)・陽武(ようぶ)・京(けい)・密(みつ)など10県以上を攻略する。

前後にわたる功績が評価されて鷹揚校尉(ようようこうい)に任ぜられ、やがて揚武中郎将(ようぶちゅうろうしょう)に昇進した。

-196年-
この年、許(きょ)への遷都が行われ、曹洪は諫議大夫(かんぎたいふ)に任ぜられた。

-200年-
この年、曹操が烏巣(うそう)を急襲した際、留守の本陣を任せられ、袁紹配下の張郃(ちょうこう)と高覧(こうらん)の攻撃をよく防いだ。

-203年-
この年、曹操が劉表を討伐した際には別動隊として活躍。舞陽(ぶよう)・陰葉(いんしょう)・堵陽(とよう)・博望(はくぼう)の各地で劉表配下の部将を撃破した。

このときの手柄により、曹洪は厲鋒将軍(れいほうしょうぐん)に昇進し、国明亭侯(こくめいていこう)に封ぜられた。その後も曹操の討伐に付き従ったため、都護将軍(とごしょうぐん)に任ぜられた。

-217年-
この年、劉備配下の張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・呉蘭(ごらん)らが下弁(かべん)に侵出。曹洪は曹操の命を受けて防戦にあたり、翌218年には撃退した。

-220年-
1月、曹操が崩御(ほうぎょ)。

この年、曹丕が帝位に即くと衛将軍(えいしょうぐん)に任ぜられ、やがて驃騎将軍に昇進。爵位も野王侯(やおうこう)に進み、1千戸を加増されて2,100戸となり、特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)の位を授けられた。後に都陽侯(とようこう)に移封された。

-?年-
この年、曹丕から食客が法を犯したことを問罪され、免官のうえ爵位を貶され、封邑も削られる。

-226年-
5月、曹丕が崩御して曹叡が帝位を継ぐと、後将軍(こうしょうぐん)に任ぜられ、改めて楽城侯に封ぜられて1千戸を賜った。後に再び特進の位を授けられ、驃騎将軍に復した。

-232年-
この年に死去し、恭侯と諡された。

管理人「かぶらがわ」より

先の曹純(そうじゅん)の個別記事で「曹操は一族に逸材が多い」と書きましたが、この人は少し違うのでしょうか?

本伝によると「初め曹洪は裕福なのにケチだった」ということです。「曹丕は若いころ、曹洪に借財を申し込んで断られたことがあり、ずっと根に持っていた」のだとか。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』では、「曹丕が東宮(とうぐう)にいたころ、曹洪から100匹の絹を借りようとしたものの、曹洪が承知しなかった」とありました。

やがて曹丕の時代になると、曹洪は食客が法を犯したことを口実に逮捕され、死罪になりかけます。ただ、この件がいつのことだったのかはわかりませんでした。

このときは卞太后(べんたいこう)が郭皇后(かくこうごう)を動かし、曹洪の助命を懇願させたため、免官のうえ爵位を貶し、封邑を削ることで決着させています。

この『魏略』には、曹操が司空(しくう)を務めていたとき(196~208年)に譙県で行わせた財産調査の話も載せられており、県令(けんれい)が曹洪の財産を調査したところ、何と曹操の財産と同等との結果が出たという。相当ため込んでいたのですね。

それでも『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)には、243年7月に曹芳(そうほう)が詔(みことのり)を下し、曹操の霊廟(れいびょう)前の広場に祭らせた21人の中に、曹洪の名もありました。

あと、本伝の裴松之注に引く王沈(おうしん)の『魏書』に、「曹洪の伯父で尚書令(しょうしょれい)を務めていた曹鼎(そうてい)が、曹洪を蘄春県長(きしゅんけんちょう)に任じた」という記事がありましたが――。

この件もいつのことなのかわかりませんでした。

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