曹休(そうきゅう)

【姓名】 曹休(そうきゅう) 【あざな】 文烈(ぶんれつ)

【原籍】 沛国(はいこく)譙県(しょうけん)

【生没】 ?~228年(?歳)

【吉川】 第177話で初登場。
【演義】 第056回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・曹休伝』あり。

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魏(ぎ)の曹操(そうそう)の族子(おい)、長平壮侯(ちょうへいのそうこう)

父母ともに不詳。息子の曹肇(そうちょう)は跡継ぎ。曹纂(そうさん)も同じく息子。

曹休は10余歳で父を亡くしたが、客人のひとりとともに亡骸(なきがら)を担いで仮の埋葬を済ませると、年老いた母を連れ長江(ちょうこう)を渡り、呉郡(ごぐん)へ行った。

190年、曹操が義兵を起こすと姓名を変え荊州(けいしゅう)まで行き、間道を通って北へ帰り、曹操に目通りした。曹操は側近たちに、「こやつはわが家の千里(せんり)の駒じゃ」と言い、曹丕(そうひ)と起居をともにさせ、わが子のように扱った。

曹休はいつも曹操の討伐に付き従い、虎豹騎(こひょうき)をひきいて宿衛にあたった。

曹操の時代(220年以前)には中領軍(ちゅうりょうぐん)まで、曹丕の時代(220~226年)には征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)まで、曹叡(そうえい)の時代(226~239年)には大司馬(だいしば)まで、それぞれ昇った。

228年に死去して壮侯と諡(おくりな)され、息子の曹肇が跡を継いだ。

主な経歴

生年は不詳。

-?年-
この年、10余歳で父を亡くしたため老母を連れて長江を渡り、呉郡へ行った。

-190年-
この年、荊州を経由して曹操のもとへ向かい、その配下に加わった。

-217年-
この年、劉備(りゅうび)配下の張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・呉蘭(ごらん)らが下弁(かべん)に侵出し、曹操は曹洪(そうこう)を討伐に遣わす。このとき曹休は騎都尉(きとい)に任ぜられ、曹洪の軍事に参与した。

-219年-
5月、曹操が漢中(かんちゅう)から撤退。諸軍が長安(ちょうあん)に帰還すると中領軍に任ぜられる。

-220年-
1月、曹操が崩御(ほうぎょ)。

2月、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、曹休は領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)に任ぜられ東陽亭侯(とうようていこう)に封ぜられる。

4月、大将軍の夏侯惇(かこうとん)が死去すると、鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)・仮節(かせつ)・都督諸軍事(ととくしょぐんじ)に任ぜられる。曹休が任地に赴く際には曹丕自ら見送りに出た。さらに御車(みくるま)から降り、曹休の手を握って別れを惜しんだという。

-?年-
この年、孫権(そんけん)が部将を派遣して歴陽(れきよう)に侵出。曹休が迎撃にあたり、これを討ち破った。また、別動隊に長江を渡らせ、蕪湖(ぶこ)にあった数千の敵営を焼き討ちにした。こうして征東将軍(せいとうしょうぐん)に昇進し揚州刺史(ようしゅうのしし)を務め、安陽郷侯(あんようきょうこう)に爵位が進んだ。

-222年-
9月、曹丕が呉(ご)の孫権討伐に乗り出す。このとき征東大将軍に任じられ黄金の鉞(まさかり。軍権の象徴)を貸し与えられる。

曹休は張遼(ちょうりょう)・臧霸(そうは)ら諸州郡の20余軍を指揮し、呉の呂範(りょはん)らを洞浦(どうほ)に攻め、これを討ち破った。この功績により揚州牧(ようしゅうのぼく)に任ぜられた。

-226年-
5月、曹丕が危篤に陥ると、中軍大将軍(ちゅうぐんだいしょうぐん)の曹真(そうしん)、鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)の陳羣(ちんぐん)、撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)の司馬懿(しばい)とともに召され、みなで遺詔を受け曹叡の補佐を託された。

5月、曹丕が崩御し曹叡が帝位を継ぐと、長平侯(ちょうへいこう)に爵位が進んだ。

この年、呉の審悳(しんとく)が皖(かん)に侵出。これを討ち破り審悳を斬る。この際、呉の部将の韓綜(かんそう)・翟丹(てきたん)らが降伏してきた。

曹休は400戸を加増されて2,500戸となり、12月には大司馬に昇進。都督諸軍事および揚州牧はそのまま兼ねた。

-228年-
この年、曹叡が2本の街道から呉討伐の軍勢を送り込む。司馬懿は漢水(かんすい)から南下し、曹休は諸軍を指揮して尋陽(じんよう)へ向かった。

ここで呉の周魴(しゅうほう)が偽りの投降を申し出、曹休はこの計を見破れず敵地深くへと入り込み、石亭(せきてい)で大敗。このときは夜中に突然兵士たちが騒ぎ出し、武器や鎧、輜重(しちょう)を放棄して逃亡するというありさまだった。

曹休は曹叡に上書して謝罪。しかし、曹叡は屯騎校尉(とんきこうい)の楊曁(ようき)を遣わし曹休を慰撫させた。儀礼や賜与はこれまで以上だった。曹休は石亭の大敗が原因で背中に悪性の腫瘍ができ、ほどなく死去して壮侯と諡された。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王沈(おうしん)の『魏書』によると、曹休の祖父は呉郡太守(ごぐんのたいしゅ)を務めたことがあったそうです。

幼いころに父を亡くし、母を連れ呉郡へ行ったという話には触れましたが、曹休は太守の官舎の壁に祖父の肖像画が掛けられているのを見ると、長椅子から下りて拝礼し、涙を流したのだとか。

同じく王沈の『魏書』には、この母が亡くなったとき、曹休が孝行の限りを尽くして哀悼した様子も載せられていました。軍事的な才能は曹仁(そうじん)や曹純(そうじゅん)に比べると見劣りしますが、孝行者だったらしい。

ですが、『三国志』(魏書・賈逵伝〈かきでん〉)とその裴松之注に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』、および王沈の『魏書』によると、「曹休は石亭での大敗時、賈逵の救援を受けて何とか生き延びられたにもかかわらず、『(曹休自身が)捨ててきた武器などを拾いに行け』と無茶を言ったり、『救援に来るのが遅い』として罪に陥れようとした」ということです。

このふたりは曹丕の時代から仲が悪く、曹丕が賈逵に節(せつ。権限を示すしるし)を貸し与えようとしたときにも横やりを入れ、それを邪魔したりしています。

それでも『三国志』(魏書・斉王紀〈せいおうぎ〉)によると、243年7月に曹芳(そうほう)が詔(みことのり)を下し、曹操の霊廟(れいびょう)前の広場に祭らせた21人の中には曹休の名もありました。
「魏の曹氏」収録人物一覧
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魏の曹氏 人物データ
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