【姓名】 秦旦(しんたん) 【あざな】 ?
【原籍】 ?
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
遼東(りょうとう)で待っていた思わぬ苦難
父母ともに不詳。
233年、孫権(そんけん)は、前年に臣従を申し出た遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫淵(こうそんえん)を信じ、彼を燕王(えんおう)に封ずることにする。
そこで、公孫淵が遣わした校尉(こうい)の宿舒(しゅくしょ)と郎中令(ろうちゅうれい)の孫綜(そんそう)が帰国する際、呉(ご)の太常(たいじょう)の張弥(ちょうび)、執金吾(しつきんご)の許晏(きょあん)、将軍の賀達(がたつ)らに1万の兵を付けて同行させ、財宝や九錫(きゅうせき)の下賜品を授けようとした。
このとき秦旦は中使(ちゅうし。主君の個人的な挨拶を伝える役)として、張羣(ちょうぐん)・杜徳(ととく)・黄疆(こうきょう)らとともに使節団に加わる。
使節団が襄平(じょうへい。遼東郡の郡治で公孫淵の本拠地)に到着したとき、呉の官吏や従者は合わせて400余人いた。
ところが、公孫淵は翻意して張弥や許晏の殺害を謀り、手始めに呉の関係者を各地に分けて滞在させる。秦旦は張羣・杜徳・黄疆らに加え、官吏と兵士60人とともに玄菟郡(げんとぐん)へ行くよう言われ、民家での仮住まいを強いられた。
玄菟郡は遼東郡の北東200里にあって、太守の王賛(おうさん)が200戸を治めていたが、多く見積もっても配下の兵士は3、400人というところだった。
そのまま40日ほど過ぎたころ、秦旦は黄疆らと相談して王賛を倒す計画を立て、8月19日の夜に決行する手はずを整える。
しかし当日の昼、部下の張松(ちょうしょう)が秦旦らの計画を密告したため、王賛は兵士を集めて城門を閉じた。
秦旦・張羣・杜徳・黄疆らは城壁を越えて城外へ逃れたものの、張羣は膝にできた腫れ物のため、思うように歩けなかった。
張羣は杜徳の手を借り、何とか6、700里の険しい道を進んできたが、傷が悪化し、ついに草むらに倒れ伏す。
みな張羣のそばに集まって涙を流すと、張羣は自分のことは捨て置き、早く先へ進んで使命を果たすよう言った。
それでもみな張羣を見捨てず、杜徳がこの場に留まって看病し、秦旦と黄疆のふたりは先へ進むことになった。
数日後、秦旦と黄疆は句麗(くり。高句麗〈こうくり〉)の地までたどり着き、王の位宮(いきゅう)に経緯を説明する。
位宮が配下を付けてくれたので、秦旦は連絡を待っていた杜徳と張羣を助け出すことができた。
秦旦らは年内に位宮が遣わした25人の使者とともに帰国を果たし、孫権からその義行を高く評価され、みな校尉に任ぜられたという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書』によるもので、秦旦の名は『三国志』の本文には見えません。
こういった心温まる話も拾われているのが、裴松之注のいいところですけど……。
重臣たちの反対を押し切って、遼東に使節団を派遣した孫権の判断ミスが招いた、命がけの脱出行だったと言えますね。
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