【姓名】 沈友(しんゆう) 【あざな】 子正(しせい)
【原籍】 呉郡(ごぐん)
【生没】 176~204年(29歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
輝きすぎた才学のために命を縮める
父母ともに不詳。
186年、沈友が11歳の時、勅使の華歆(かきん)が巡察の一環として呉郡に立ち寄る。華歆は沈友の非凡さを見抜き、自分の車で一緒に話をしないかと誘った。
すると沈友は車から離れ、君子が誼(よしみ)を結ぶ際の礼の規定を持ち出して華歆の態度を非難し、かえって華歆を感嘆させた。
沈友は成人するまでに広く学問を修め、多事に精通し、巧みな文章を書くことができた。
一方で武事も好み、『孫子兵法(そんしへいほう)』に注を付ける。これに加えて弁舌にも優れ、議論の場で彼と対等に意見を交わせる者がいないほどだった。
皆の高い評価を聞いた孫権(そんけん)は手厚い礼をもって招き、やってきた沈友は王者や覇者の方略を論じたり、現状の急務について語り、彼が献じた荊州(けいしゅう)を取るための策が採用された。
その後、沈友は厳格な態度で朝会に臨み続け、決して妥協しなかった。このため無能な者から讒言(ざんげん)を受けてしまう。
204年、孫権が大勢の家臣を集めて開いた会議の席で、沈友がその施政を批判する意見を述べた。
すると孫権は「お前が謀反を企んでいると告げた者がいるぞ」と言い、無理やり沈友を引きずり出す。
沈友はこの事態から逃れることはできないと感じ、こう言い返した。
「許(きょ)におわす天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を軽んずるような考えを持っている者のほうは、謀反を企んでいないと言えましょうか?」
これを聞いた孫権は怒りに任せて沈友を処刑した。このとき29歳だったという。
管理人「かぶらがわ」より
上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張勃(ちょうぼつ)の『呉録(ごろく)』によるもので、沈友の名は『三国志』の本文には見えません。
沈友のように多才な人は周りが見えにくくなるらしく、他人の妬みを買いやすいところが感じられます。
曹操(そうそう)に仕えた楊脩(ようしゅう)や、曹沖(そうちゅう)並みの才知を見せたという周不疑(しゅうふぎ)を思い起こさせますね。
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