嵆康(けいこう) ※あざなは叔夜(しゅくや)、竹林七賢(ちくりんのしちけん)のひとり

【姓名】 嵆康(けいこう) 【あざな】 叔夜(しゅくや)

【原籍】 譙国(しょうこく)銍県(ちつけん)

【生没】 223~262年(40歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「嵆康伝」あり。

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司馬昭(しばしょう)に警戒されて友に殉ずる、竹林七賢(ちくりんのしちけん)のひとり

父は嵆昭(けいしょう)だが、母は不詳。嵆喜(けいき)は兄。息子の嵆紹(けいしょう)は跡継ぎ。妻は曹林(そうりん)の孫娘だった。

嵆康は文辞が壮麗で、よく老荘(ろうそう。老子〈ろうし〉と荘子〈そうし〉)について語った。また奇矯さを尊び、俠気(きょうき)を重んじたという。

だが、曹奐(そうかん)の景元(けいげん)年間(260~264年)にある事件に関係したため処刑された。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

本伝には上で挙げた程度の記事しかなく、ここから彼の人物像をうかがい知るのは困難(というか不可能)。

なので、以下に本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)からいくつか拾っておきます。

まず、虞預(ぐよ)の『晋書(しんじょ)』には――。

「嵆康の家は本姓を奚(けい)といい、会稽(かいけい)の人である。先祖が会稽から譙郡の銍県に移住し、嵆と改姓した。稽の字の上部を採り、これに山の字を加えて姓としたもので、その本籍を示しているのだろう」

「一説には銍県に嵆山という山があり、彼らがそのそばで暮らしたので、山の名を姓としたともいう」とありました。

孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』には次のような話もあります。

「嵆康は河内郡(かだいぐん)の山陽県(さんようけん)に住んでいた。交遊のある者でも、彼が喜怒を表すところを見た者はいなかった」

「陳留(ちんりゅう)の阮籍(げんせき)、河内の山濤(さんとう)、河南(かなん。正しくは河内)の向秀(しょうしゅう)、阮籍の兄の子である阮咸(げんかん)、琅邪(ろうや)の王戎(おうじゅう)、沛(はい)の劉怜(りゅうれい)と仲が良く、彼らとともに竹林に遊び、『七賢』と称された」

このほかに、鍾会(しょうかい)が訪ねてきた際、嵆康はあぐらをかいて鉄を鍛えており、挨拶もせず適当に応対したという話や――。

大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭の招聘(しょうへい)を避けて河東(かとう)へ行った、という話もありました。

また、選曹郎(せんそうろう)に取り立てられた山濤から自分の代わりに推挙されると、返書を出して断ったのですが――。

このときついでに「世俗に耐えられないから断るのであって、湯王(とうおう。殷〈いん〉建国の王)や武王(ぶおう。周〈しゅう〉建国の王)(ともに暗に司馬氏を指している)を無視しているわけではない」と弁解します。

そして、これを聞いた司馬昭を立腹させたのだとか。

嵆康は、東平(とうへい)の呂巽(りょそん)と呂安(りょあん)の兄弟とも仲が良かったそうで、後に呂巽が弟の呂安を誣告(ぶこく)して牢獄(ろうごく)へ追いやると、嵆康は呂安の証人となって弁護します。

ところが鍾会は、この機会に呂安だけなく嵆康も除くよう進言し、司馬昭に容れられました。こうしてふたりは処刑されます。

「嵆康は刑に臨み、平然と琴を弾いた後、慨嘆して言った。『古典音楽はここに絶えるだろう……』。当時の人々に哀れを催さない者はなかった」とも。

なお、嵆康が書き著した種々の文学作品や論文は6、7万字に上り、みな世間で愛好され、朗詠されたということでした。

前に採り上げた阮籍と同様、唐代(とうだい)に編纂(へんさん)された『晋書』には「嵆康伝」がありますが、そちらを吟味できていないので、この記事も中途半端なものになってしまいました。いずれ加筆できればと思います。

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