【姓名】 華覈(かかく) 【あざな】 永先(えいせん)
【原籍】 呉郡(ごぐん)武進県(ぶしんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 第119回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・華覈伝』あり。
厳しい諫言を繰り返しながらも孫晧(そんこう)の治世を生き抜く
父母ともに不詳。
華覈は初め上虞県尉(じょうぐけんい)となり、典農都尉(てんのうとい)に転ずる。その後、文章や学問の才能を見込まれて中央へ入り、秘府郎(ひふろう)を経て中書丞(ちゅうしょじょう)に昇進した。
264年、孫晧が帝位を継ぐと、華覈は徐陵亭侯(じょりょうていこう)に封ぜられる。
267年、孫晧は広大な宮殿(顕明宮〈けんめいきゅう〉。昭明宮〈しょうめいきゅう〉)の造営を命じたが、これには莫大(ばくだい)な費用がかかったうえ、真夏に工事が行われたことから、農耕や国防はすっかりおろそかになってしまう。
華覈は上疏して呉の現状を説き、宮殿造営の労役を取りやめるよう厳しく諫めたものの、孫晧に聴き入れられることはなかった。
後に東観令(とうかんれい)に昇進して右国史(ゆうこくし)を兼ねると、華覈は辞退を申し出たが、これも孫晧に聴き入れてもらえなかった。
このころ官倉に蓄えもないのに、世間では奢侈(しゃし)の風潮がはびこっていた。
華覈は上疏して過酷な労役を諫め、民が農耕や養蚕(ようさん)に専念できるようにしてやるべきだと述べる。加えて、庶民に華美な衣服の使用を禁止するよう求めた。
すでに華覈は高齢だったため、孫晧から特別に、清書前の上表文を提出することを許されていたが、彼は下書きのまま提出しなかった。
そこで孫晧は、わざわざ人を遣り、華覈の上表文の下書きができ上がるのをそばで待たせ、そのまま受け取ってくるよう命じたほどだったという。
華覈は時務への対応策を述べたり、才能のある人物を推薦したり、罪にかかった者のために執り成しを行ったりしたが、こうした上書は100通ほどにもなった。
275年、華覈はささいなことから孫晧の譴責(けんせき)を受けて免官となり、数年後(時期は不明)に死去した。
管理人「かぶらがわ」より
孫晧の機嫌を損ねて誅殺された人物は数多くいますが、華覈は耳障りな諫言を繰り返したわりに、免官で済まされています。
華覈の心底からの忠言には、さすがの孫晧も感じ入るところがあったのでしょうか?
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