王粲(おうさん) ※あざなは仲宣(ちゅうせん)、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

【姓名】 王粲(おうさん) 【あざな】 仲宣(ちゅうせん)

【原籍】 山陽郡(さんようぐん)高平県(こうへいけん)

【生没】 177~217年(41歳)

【吉川】 第123話で初登場。
【演義】 第040回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝』あり。

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天性の才能を高く評価されるも性格に難あり、建安七子(けんあんのしちし)のひとり

父は王謙(おうけん)だが、母は不詳。ふたりの息子がいたものの名は出てこない。

王粲の家は、曾祖父の王龔(おうきょう)と祖父の王暢(おうちょう)が三公まで昇った名門で、父の王謙は大将軍(だいしょうぐん)の何進(かしん)の長史(ちょうし)を務めた。

何進は高名な三公の血筋である王氏と姻戚関係を結びたいと考える。そこで自分の息子ふたりを引き合わせてみたが、王謙は承知しなかったという。

その後、王謙は病気のため免職となり、家で亡くなった。

190年、献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)へ遷(うつ)ると王粲も移住したが、左中郎将(さちゅうろうしょう)の蔡邕(さいよう。192年没)と会って高く評価された。

193年、王粲は17歳で司徒(しと)から招かれる。また、詔(みことのり)によって黄門侍郎(こうもんじろう)に任ぜられた。

しかし、長安が動乱の中にあることを見て任官を断り、荊州(けいしゅう)へ行って劉表(りゅうひょう)を頼る。

ところが劉表は、王粲の風采が上がらず、ひ弱で大まかな性格であることを嫌い、それほど重用しなかった。

208年、劉表が死去すると、王粲は跡を継いだ劉琮(りゅうそう)に曹操(そうそう)への帰順を勧める。

曹操は王粲を召して丞相掾(じょうしょうえん)に任じ、関内侯(かんだいこう)に封じた。後に王粲は軍謀祭酒(ぐんぼうさいしゅ)に昇進する。

213年、魏が建国された後、侍中(じちゅう)となる。

王粲は博学多識で、質問に答えられないことがなかった。

当時は過去の儀式が廃止されたり簡素になっていたが、新たな制度を定める際には常に王粲が主宰したという。

216年、王粲は曹操の孫権(そんけん)討伐に付き従ったものの、翌217年に道中で病死。このとき41歳だった。

王粲のふたりの息子は、219年に魏諷(ぎふう)の謀反に加担したため処刑され、跡継ぎは絶えた。

その後、族兄(いとこ。一族の同世代の年長者)の王凱(おうかい)の息子である王業(おうぎょう)が王粲の跡継ぎとして立てられた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には、王粲の記憶力が優れていたことを示す記事がありました。

あるとき王粲が人と一緒に歩いていて、道端の石碑を読みます。

その人から暗唱できるかと言われたので、王粲は後ろを向いて朗唱してみせ、これが一字も間違えていなかったのだと。

また、囲碁を見物していたとき、盤上がめちゃくちゃになったことがあり――。

王粲がもと通りに並べられると言ったところ、対局者は信用せず、2幅の布で盤面を覆います。

そこへ別の盤を持ってきて王粲に並べ直してもらい、両方を比べてみると、まったく間違えていなかったのだとも。

本伝では、そのほかの才能にも触れられていました。

「王粲は生まれつき計算に明るく、自ら算法を作り、その道理をほぼ究めた」

「文章を作るのもうまく、筆を執ればすぐにでき上がり、手直しすることがなかった。このため当時の人々は、前から作っておいたものだと思い込んだ」

「だが、これは彼が心を込めて思いを凝らした結果で、それ以上は不可能なほど努力していたのだ」というもの。

王粲は60編近い詩・賦(ふ)・論・議を著したそうで、「努力も怠らなかった天才」という感じでしょうか?

さらに本伝には、曹丕(そうひ)が五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)だったころ(211~217年)、平原侯(へいげんこう。211~214年)の曹植(そうしょく)と並んで文学を愛好したとの記事もあります。

王粲は、北海(ほっかい)の徐幹(じょかん)、広陵(こうりょう)の陳琳(ちんりん)、陳留(ちんりゅう)の阮瑀(げんう)、汝南(じょなん)の応瑒(おうちょう)、東平(とうへい)の劉楨(りゅうてい)とともに友人として親愛されたとのこと。

彼ら6人に魯国(ろこく)の孔融(こうゆう)を加えた7人が、曹丕が『典論(てんろん)』の中で列挙し、「建安七子」と称された文人です。

このほかの関連記事としては、『三国志』(魏書・鍾会伝〈しょうかいでん〉)に付された「王弼伝(おうひつでん)」の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『博物記(はくぶつき)』によるものがありました。

「むかし王粲が族兄の王凱とともに荊州へ避難したとき、劉表は娘を王粲に嫁がせようと思った」

「しかし王粲の容貌が醜いうえ、その行動が軽率なのを嫌う。一方で王凱の容姿が美しいの見て、彼に娘を嫁がせた」という。

話はこれで終わらず――。

「蔡邕は1万巻近い書物を持っていたが、その晩年、これらを数台の車に載せて王粲に贈った」

「王粲の死後、(219年に)相国掾(しょうこくえん)の魏諷が謀反を企てたとき、王粲の息子たちも加担した。彼らが処刑された後、蔡邕が贈った書物はみな(王凱の息子である)王業の物になった」ともいう。

王粲だけでなく、その息子たちにも軽率なところがあったのか……。

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