令狐邵(れいこしょう) ※あざなは孔叔(こうしゅく)

【姓名】 令狐邵(れいこしょう) 【あざな】 孔叔(こうしゅく)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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氷雪のように清潔な政治

父母ともに不詳だが、父は漢(かん)の烏丸校尉(うがんこうい)を務めたという。令狐華(れいこか)という息子がおり、令狐愚(れいこぐ)は族子(おい。同族内で子の世代にあたる者)。

建安(けんあん)年間(196~220年)の初めに袁氏(えんし。袁紹〈えんしょう〉)が冀州(きしゅう)にあったとき、令狐邵は太原を離れて鄴(ぎょう)に住んでいた。

204年、令狐邵が武安(ぶあん)の毛城(もうじょう)へ行っている間に、曹操(そうそう)が鄴を陥し、そのまま毛城を包囲する。

そして毛城が敗れると、令狐邵を始めとする仲間10余人が捕らえられ、みな斬刑に該当した。

このとき曹操は令狐邵と会ったが、衣冠(を着けるような家柄)の者ではないかと不審に思い、先祖について尋ねてみる。

すると彼の父に面識があったことがわかり、令狐邵を釈放して司空軍謀掾(しくうぐんぼうえん)に任じた。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

後に令狐邵は各地の太守(たいしゅ)を歴任し、丞相主簿(じょうしょうしゅぼ)を経て弘農太守(こうのうたいしゅ)に転ずる。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

いずれの任地でも氷雪のように清潔な政治を行い、令狐邵の妻子が役所を訪れることもまれだった。

令狐邵は善事や教育を勧め、思いやりをもって人に接し、裁判を好まず、部下と猜疑(さいぎ)し合うこともない。

このころ弘農には経書を理解する者がいなかったので、令狐邵は部下に声をかけて回り、遠方の師に就いて学びたいという者がいれば、すぐに休暇を与える。

こうして河東(かとう)の楽詳(がくしょう)の下で経書を学ばせ、おおよそ理解できたところで帰還させた。それを機に学官が置かれると、弘農の学業は一転して盛んになったという。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)の初め、令狐邵は召し還されて羽林郎(うりんろう)となる。

やがて虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)に昇進したが、3年後(時期は不明)に病死した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・倉慈伝〈そうじでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

『魏略』には、令狐邵の族子の令狐愚にまつわる話もあり、令狐愚は無官のころから大志を抱いていたので、人々は彼が令狐氏を栄えさせるに違いないと考えていたそうです。

ところが令狐邵だけは、令狐愚は生まれつき倜儻(てきとう。気持ちが大きく、物事にこだわらないこと)であるうえ、徳を修めずに大きなことを望んでいるとして、きっとわが一族を滅ぼすだろうと考えていたという。

これを聞いた令狐愚は、内心穏やかではなかったとも。

令狐邵が虎賁中郎将になったとき、すでに令狐愚は多くの官職を歴任しており、すべての任地で評価を得ていました。

令狐愚は令狐邵に会った折、話のついでにそれとなく尋ねます。

「前に大人(あなた)は愚(令狐愚)が一族を滅ぼす、とおっしゃったそうですが、今の愚はいかがでしょうか?」

このとき令狐邵は、令狐愚をジッと見ただけで何も言いませんでしたが、令狐愚の妻子にだけ密かに告げます。

「公治(こうち。令狐愚のあざな)の性格はもとのままだ。私の見るところ、最後は破滅するに違いない。私が生き長らえて連座するかはわからないが、お前たちは巻き込まれることになるだろう」

令狐邵の死から十数年後、兗州刺史(えんしゅうしし)の令狐愚は舅(おじ。母の兄弟)の王淩(おうりょう)と天子(てんし。曹芳〈そうほう〉)の廃立を企てます。

令狐愚自身は249年に病死したものの、251年には事件に関わった者の三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)まで処刑されました。

ただ、令狐邵の息子で弘農郡丞(こうのうぐんじょう)の令狐華については、令狐愚の遠縁であったため連座を免れたとのことでした。

令狐邵の没年がはっきりしませんけど、どうも曹叡(そうえい)の青龍(せいりょう)年間(233~237年)の末ごろのようですね。

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