路粋(ろすい)

【この記事をシェアする】

【姓名】 路粋(ろすい) 【あざな】 文蔚(ぶんうつ)

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)

【生没】 ?~214年?(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第023回で初登場。
【正史】 登場人物。

孔融(こうゆう)を弾劾する上奏文を起草

父母ともに不詳。息子がいたことがうかがえる。

路粋は若いころ蔡邕(さいよう)に学び、190年には献帝(けんてい)の御車に随行して三輔(さんぽ。長安〈ちょうあん〉を中心とする地域)へ赴く。

そして建安(けんあん)年間(196~220年)の初め、優れた才能により厳像(げんしょう。厳象)とともに抜てきされ、「尚書郎(しょうしょろう)」に任ぜられる。

のち路粋は「軍謀祭酒(ぐんぼうさいしゅ)」となり、陳琳(ちんりん)や阮瑀(げんう)らとともに「記室(きしつ)」を担当した。

208年、孔融に過失があった際、曹操(そうそう)の命を受け上奏文を起草。孔融が処刑された後、人々は路粋の作った弾劾文を読み才能に感心する一方、その筆力を恐れもした。

214年、路粋は「秘書令(ひしょれい)」に転じ、大軍に付き従って漢中(かんちゅう)へ赴いたものの、禁令に違反し驢馬(ロバ)を安く買い受けた罪で法に服した。曹丕(そうひ)はかねて路粋と仲が良かったため、彼の死を聞くと嘆き惜しむ。

220年、曹丕が帝位に即くと、特に路粋の息子を「長史(ちょうし)」として起用した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王粲伝〈おうさんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『典略(てんりゃく)』によるもの。

なお、路粋が大軍に付き従って漢中へ赴いたという記事については、214年のことなのか219年のことなのか、イマイチよくわかりませんでした。

原文を見ると「路粋は秘書令に転じ、大軍に付き従って漢中に至った…」という流れになっているので、214年の話かと思わせますけど……。214年には曹操や配下の部将たちは漢中まで行っていないはず。

219年には夏侯淵(かこうえん)の戦死を受け、曹操の漢中への出撃(ほどなく撤退)がありました。なので、路粋が法に服し(て処刑され)たというのは219年のことかもしれません。

スポンサーリンク

おすすめ記事(広告を含む)

【この記事をシェアする】

【更新情報をフォローする】