婁圭(ろうけい) ※あざなは子伯(しはく)

【姓名】 婁圭(ろうけい) 【あざな】 子伯(しはく)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第184話で初登場。
【演義】 第059回で初登場。
【正史】 登場人物。

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曹操(そうそう)父子を皮肉ったことで処刑される

父母ともに不詳。

婁圭は若いころ曹操と知り合い、初平(しょへい)年間(190~193年)には荊州(けいしゅう)の北境で群衆を集めていたが、後に曹操のもとへ赴く。

曹操は婁圭を大将(たいしょう)としたものの、軍の指揮は執らせず、いつも会議に同席させていた。

204年?、河北(かほく)が平定されると、婁圭は曹操に付き従って冀州(きしゅう)へ赴く。

曹操が子どもたちを連れて遊楽に出かける際、たまに婁圭も随行した。そのとき婁圭が振り返り、左右の者に言う。

「この家(曹氏)の父と子は、今日のような楽しみを味わったことがあっただろうか?」

婁圭の発言を伝えた者がおり、曹操は誹謗(ひぼう)の意図があると判断する。婁圭は逮捕のうえ、処刑(時期は不明)されてしまったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・崔琰伝〈さいえんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

また、韋昭(いしょう。韋曜〈いよう〉)の『呉書(ごしょ)』には以下のような異説もありました。

婁圭は若いころから勇猛な志を持っていたといい、亡命者をかくまった罪で投獄され、死刑になるところ、牢獄(ろうごく)の塀を乗り越えて脱走した。

捕吏が懸命に捜したものの、婁圭は服を着替え、捕吏の手助けをしているように装って逃れる。

このころ(189~190年)董卓(とうたく)討伐の義兵が起こり、婁圭も群衆を集めて劉表(りゅうひょう)と連携する。

その後、婁圭は曹操のもとへ身を寄せ、軍事や国家の大計に参画した。

211年、曹操が馬超(ばちょう)らを撃破した際、婁圭は大功を立てる。

後に婁圭が習授(しゅうじゅ)と同じ車に乗っていたとき、たまたま曹操一家の車列に出会う。

習授は曹操父子の様子を見てたたえたが、婁圭は言った。

「世間で暮らすなら、自分がそう(曹操のように)なるべきなのだ。それをただ他人(曹操一家)を眺めているだけとは!」

この発言を習授が曹操に伝えたため、婁圭は処刑されてしまったという。

なお、馬超らを撃破した際の婁圭の功績について『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注に引く『曹瞞伝(そうまんでん)』には――。

(211年に)曹操が渭水(いすい)を渡って対岸に城を築こうとしたものの、馬超の騎兵の突撃を受けたり、砂の多い土地だったため、なかなか築けずにいたという話があり。

このとき婁圭が、砂で造った壁に水をかけて(一夜にして氷の城を造って)はどうかと進言します。

曹操はこれを容れ、多くの絹袋を使って水を運ぶことにし、夜のうちに兵を渡河させて城を造ったとしていました。

ただ、ここで裴松之は「ある人」の疑念を提示しています。「当時は9月だったから、まだ水が凍るはずがない」と。

本当のところはわかりませんが、氷の城の話は吉川『三国志』(第184話)や『三国志演義』(第59回)でも使われています。

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