曹奐(そうかん) ※あざなは景明(けいめい)、魏(ぎ)の元皇帝(げんこうてい)

【姓名】 曹奐(そうかん) 【あざな】 景明(けいめい)

【原籍】 譙郡(しょうぐん)譙県(しょうけん)

【生没】 245~302年(58歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第114回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・陳留王紀(ちんりゅうおうぎ)』あり。

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魏(ぎ)の第5代皇帝、晋(しん)の司馬炎(しばえん)に禅譲、元皇帝(げんこうてい)

燕王(えんおう)の曹宇(そうう)の息子で、もとの名を曹璜(そうこう)という。先代の曹髦(そうぼう)が殺害されたため、帝位に即いた。

265年に晋王(しんおう)の司馬炎に禅譲。その後は陳留王に封ぜられ、302年に58歳で薨去(こうきょ)した。諡号(しごう)は元皇帝。

主な経歴

-245年(1歳)-
この年、誕生。

-258年(14歳)-
この年、安次県(あんじけん)の常道郷公(じょうどうきょうこう)に封ぜられた。

-260年(16歳)-
6月、洛陽(らくよう)に入城し、郭太后(かくたいこう。明元郭皇后〈めいげんかくこうごう〉)に目通りする。その日のうちに太極前殿(たいごくぜんでん)で帝位に即いた。

大赦を行い、「甘露(かんろ)」を「景元(けいげん)」と改元したうえ、民に爵位および穀物や絹織物を、それぞれ格差をつけて下賜した。

6月、大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)を相国(しょうこく)に昇進させたうえ晋公(しんこう)に封じ、領邑(りょうゆう)2郡を加増して10郡とし、九錫(きゅうせき)を加えることについて、「先の詔(みことのり)の通りにせよ」として、司馬昭の兄弟や従兄弟の息子たちのうち、まだ侯に取り立てられていない者をみな亭侯(ていこう)に封じ、銭1千万と絹1万匹を下賜しようとする。

しかし、またも司馬昭が固辞したので沙汰やみになった。

6月、漢(かん)の献帝(けんてい)の皇后だった曹節(そうせつ。曹操〈そうそう〉の娘)が死去する。

曹奐は華林園(かりんえん)へ行幸したうえ、使持節(しじせつ)を遣わし、曹節に献穆皇后(けんぼくこうごう)の諡(おくりな)を追贈する。

また「葬儀の際の車・衣服・服喪の決まりについては、すべて漢王朝の慣例通りに執り行うように」と命じた。

6月、尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)の王観(おうかん)を司空(しくう)に任ずる。

10月、司空の王観が死去する。

11月、父の曹宇から、冬至を慶賀する上表がある。この際、曹宇は臣と称した。

そのため詔を下し、実父の呼び名などの扱いについて、「礼典によって処置するように」と命じたうえで、担当官庁に意見を求めた。

12月、華陰県(かいんけん)の井戸の中に黄龍が現れる。

12月、司隷校尉(しれいこうい)の王祥(おうしょう)を司空に任ずる。

-261年(17歳)-
5月、日食が起こる。

7月、楽浪(らくろう)の外に住む蛮族の国の韓(かん)と濊貊(わいばく)が、それぞれ部族民を引き連れて朝貢に来る。

8月、趙王(ちょうおう)の曹幹(そうかん)が薨去する。

9月、詔を下し、大将軍の司馬昭を相国に昇進させ、晋公に封じて九錫を加えることについて、「先の詔の通りとするように」と再び命ずる。

しかし、またしても司馬昭が固辞したので沙汰やみになった。

-262年(18歳)-
2月、軹県(しけん)の井戸の中に青龍が現れる。

4月、粛慎国(しゅくしんこく)が通訳を重ねて入貢してくる。

この報告は遼東郡(りょうとうぐん)から届いたもので、「長さ3尺(せき)5寸の弓30張」「長さ1尺8寸の楛矢(こし)」「弩(ど)300」「獣皮・獣骨・鉄類から作った鎧20領」「貂(テン)の皮400枚」が献上された。

「弩300」については原文では「石砮(せきど)300枚」とあり、弩というよりも砮(鏃〈やじり〉にする石)のイメージかと思われる。

10月、蜀(しょく)の姜維(きょうい)が洮陽(とうよう)に侵攻する。

鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の鄧艾(とうがい)が応戦し、侯和(こうか)で蜀軍を撃破した。姜維は逃走。

この年、詔を下し、亡き軍祭酒(ぐんさいしゅ)の郭嘉(かくか)を、太祖(たいそ。曹操)の廟(びょう)の前庭に祭った。

-263年(19歳)-
2月、詔を下し、大将軍の司馬昭を相国に昇進させ、晋公に封じて九錫を加えることについて触れ、「先の詔の通りとするように」と再び命ずる。

しかし、またしても司馬昭が固辞したので沙汰やみになった。

5月、詔を下す。蜀が頼みにしているのは、ただ姜維ひとりであるとして、征西将軍(せいせいしょうぐん)の鄧艾に、「諸軍を統率して甘松(かんしょう)および沓中(とうちゅう)に進発し、姜維を生け捕りにするように」と命じたうえ、雍州刺史(ようしゅうしし)の諸葛緒(しょかつしょ)にも「諸軍を統率して武都(ぶと)および高楼(こうろう)に進発し、前後から追い立てることを命ずる」というもの。

これに加え、鎮西将軍の鍾会(しょうかい)にも「駱谷(らくこく)を通って蜀を攻撃するように」と命じた。

9月、太尉(たいい)の高柔(こうじゅう)が死去する。

10月、卞氏(べんし)を皇后に立てる。

10月、詔を下し、大将軍の司馬昭を相国に昇進させ、晋公に封じて九錫を加えることについて、「先の詔の通りとするように」と再び命ずる。

ここでようやく司馬昭が詔を受け入れる。

11月、大赦を行う。

11月、蜀の劉禅(りゅうぜん)が征西将軍の鄧艾に降伏する。これにより、巴蜀(はしょく)の地はことごとく平定された。

12月、司徒(しと)の鄭沖(ていちゅう)を太保(たいほ)に任ずる。

12月、益州(えきしゅう)を分割して梁州(りょうしゅう)を新設する。

12月、益州の士民を対象に特赦を行い、今後5年間にわたって租税の半分を免除することを決める。

12月、征西将軍の鄧艾を太尉に、鎮西将軍の鍾会を司徒に、それぞれ任ずる。

12月、郭太后が崩御(ほうぎょ)する。

-264年(20歳)-
1月、囚人護送車を差し向け、太尉の鄧艾を逮捕するよう命ずる。これは鍾会の誣告(ぶこく)を受けての措置だった。

1月、長安(ちょうあん)へ行幸する。

1月、華山(かざん)へ使者を遣わし、璧(へき)と絹を捧げて祭る。

1月、司徒の鍾会が蜀で反乱を起こしたものの、配下の兵士らに殺害される。

1月、衛瓘(えいかん)によって成都(せいと)で捕縛された鄧艾も、田続(でんしょく)に殺害される。

2月、益州に在任する者たちの罪を特に許す。

2月、明元郭后(めいげんかくこう。郭太后)の葬儀を執り行う。

3月、司空の王祥を太尉に、征北将軍(せいほくしょうぐん)の何曾(かそう)を司徒に、尚書左僕射(しょうしょさぼくや)の荀顗(じゅんぎ)を司空に、それぞれ任ずる。

3月、司馬昭の爵位を晋公から晋王に進めたうえ、10郡を加増し、以前の領地と合わせて20郡とする。

3月、昨年(263年)降伏した蜀の劉禅を安楽公(あんらくこう)に封ずる。

5月、相国の司馬昭から「五等の爵位制度(公・侯・伯・子・男)」の復活を求める上奏がある。

5月、「景元」を「咸熙(かんき)」と改元する。

5月、亡き舞陽宣文侯(ぶようせんぶんこう)の司馬懿(しばい)を晋宣王(しんのせんのう)に、同じく亡き舞陽忠武侯(ぶようちゅうぶこう)の司馬師(しばし)を晋景王(しんのけいおう)に、それぞれ改めて追封する。

6月、鎮西将軍の衛瓘が、成都県で手に入れた璧と玉印、各1顆(か)を献上してくる。なお、この玉印に刻まれた文字は「成信」とあるようだった。

7月、魏が蜀を平定した後、永安(えいあん)に迫っていた呉軍が退却する。

7月、呉の孫休(そんきゅう)が死去し、孫晧(そんこう)が帝位に即く。

8月、中撫軍(ちゅうぶぐん)の司馬炎に相国(司馬昭)の補佐を命ずる。

8月、詔を下し、先の鍾会の反乱鎮圧に功績があった、相国左司馬(しょうこくさしば)の夏侯和(かこうか)と中領軍司馬(ちゅうりょうぐんしば)の賈輔(かほ)を郷侯(きょうこう)に、郎中(ろうちゅう)の羊琇(ようしゅう)と騎士曹属(きしそうぞく)の朱撫(しゅぶ)を関内侯(かんだいこう)に、それぞれ封じ、散将(さんしょう)の王起(おうき)を部曲将(ぶきょくしょう。部隊の将)に任ずる。

8月、衛将軍(えいしょうぐん)の司馬望(しばぼう)を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任ずる。

9月、中撫軍の司馬炎を撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)に任ずる。

9月、詔を下す。魏への帰順を申し出ていた呉の呂興(りょこう)に触れ、「呂興を使持節・都督交趾諸軍事(ととくこうししょぐんじ)・南中大将軍(なんちゅうだいしょうぐん)に任じ、定安県侯(ていあんけんこう)に取り立てたうえ、適切に判断を下して職務を処理し、その執行後に上奏することを許す」というもの。

だが詔が届かないうちに、呂興は部下に殺害された。

10月、詔を下す。呉への南下に触れ、かつて寿春(じゅしゅん)で捕虜になった、もと呉の配下で魏の相国参軍事(しょうこくさんぐんじ)の徐紹(じょしょう)と水曹掾(すいそうえん)の孫彧(そんいく)に、南方(呉)への帰還を命ずるもの。

これは国家の恩恵を明らかにする措置だとし、呉への帰国にあたり、徐紹を兼散騎常侍(けんさんきじょうじ)・奉車都尉(ほうしゃとい)に任じたうえ、都亭侯(とていこう)に取り立て、孫彧を兼給事黄門侍郎(けんきゅうじこうもんじろう)に任じたうえ、関内侯に取り立てた。

さらに、徐紹らに下賜した侍婢(じひ)や家族も同行することを許した。

10月、撫軍大将軍・新昌郷侯(しんしょうきょうこう)の司馬炎を、晋王の司馬昭の世子に任ずる。

この年、屯田の官を廃止し、賦税(ふぜい)と役務を均一化する。

各郡に置いていた典農(てんのう。典農中郎将〈てんのうちゅうろうしょう〉)は、みな太守(たいしゅ)とし、都尉(とい。典農都尉)もみな、県令(けんれい)や県長(けんちょう)とした。

また蜀の旧民から、魏に移住可能な者を勧誘したり、募集したりする。これに応ずる民には2年分の食糧を給付し、力役(りきえき)や租税を免除して優遇した。

この年、安弥県(あんびけん)と福禄県(ふくろくけん)から「嘉禾(かか。穂がたくさん付いた立派な穀物)が生えた」との報告が届いた。

-265年(21歳)-
2月、胊䏰県(くじんけん)で捕獲された神秘的な亀が献上されたため、相国府(しょうこくふ)に収めさせる。

2月、かつて鍾会が反乱を起こした際、成都の諸陣営に鍾会の反逆を知らせて回り、命を落とすことになった虎賁(こほん)の張脩(ちょうしゅう)に触れ、その弟の張倚(ちょうい)を関内侯に取り立てる。

4月、南深沢県(なんしんたくけん)から「甘露が降った」との報告が届く。

4月、呉の孫晧の使者として紀陟(きちょく)と弘璆(こうきゅう)が到着し、魏に和親を求めてくる。

5月、詔を下し、呉の孫晧から献上された品々を、相国・晋王の司馬昭に届けさせようとする。しかし、司馬昭が固辞したため沙汰やみになった。

5月、詔を下し、相国・晋王の司馬昭に「冠に12の玉飾りを付けること」「天子(てんし)の旗を立て、出入りの際に先払いの役を配置し、ほかの者を通行禁止とすること」「金根車(きんこんしゃ。豪華なお召し車)に乗り、これを6頭立ての馬に引かせ、五時車(ごじしゃ。5色ある季節の色を塗った車)を副車(そえぐるま)として備えること」「旄頭(ぼうとう。天子の旗に付ける旄牛〈から牛。牛の一種〉の飾り)と雲罕(うんかん)を備えること」「八佾(はちいつ。天子の舞楽。8人が8列になって舞う)の舞楽を演ずること」「宮殿に鐘を吊るす台を設置すること」を許す。

また、晋国の王妃を王后に、世子を王太子に、それぞれ昇格させ、王子・王女・王孫の爵号を旧例に従って改めさせた。

5月、大赦を行う。

8月、相国・晋王の司馬昭が薨去する。

8月、晋の王太子の司馬炎が父の官職と領地を受け継ぎ、政治万端を取り仕切る。司馬炎の調度や礼式についても司馬昭の待遇と同じとした。

8月、襄武県(じょうぶけん)から「3丈余りもある巨人が現れた」との報告が届く。

この巨人は足跡が3尺2寸もあった。白髪で黄色の単衣(ひとえ)を身に着けており、黄色の頭巾をかぶり、杖に寄りかかっていた。巨人は王始(おうし)という平民に声をかけ、「今に呉が平定され、太平になるぞ」と言った。

9月、大赦を行う。

9月、司徒の何曾が晋の丞相(じょうしょう)に任ぜられる。

9月、驃騎将軍の司馬望を司徒に、征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の石苞(せきほう)を驃騎将軍に、征南大将軍(せいなんだいしょうぐん)の陳騫(ちんけん)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に、それぞれ任ずる。

9月、司馬昭の葬儀を執り行う。

閏11月、康居(こうきょ)と大宛(だいえん)から名馬が献上されたため、相国府に届けさせたうえ、すべての国々をなつけ、遠方から使者を招き寄せた司馬炎の勲功を顕彰する。

12月、百官に詔を下し、晋王の司馬炎に帝位を譲る。その際の礼式は漢・魏の交代の例に倣った。

12月、晋王の司馬炎に使者を遣わし、策(命令を書き付ける札)を捧げ持たせる。

こうして曹奐は金墉城(きんようじょう)へ移ることになったが、後に鄴(ぎょう)に屋敷を構えた。

-302年(58歳)-
この年、晋の陳留王として薨去。

管理人「かぶらがわ」より

曹奐は、司馬氏が禅譲の準備を整えるまでの形式的な皇帝にすぎません。司馬昭が薨ずるや事は動き、年内の禅譲によって、ついに魏は滅亡に至りました。

蜀の攻略に功績があった鄧艾と鍾会。そのうちの鄧艾は鍾会の誣告をきっかけに倒れ、残った鍾会も姜維と組んで反乱を起こすも、あっけなく倒れてしまいました。これではとても司馬氏の相手になりません。

魏は曹丕(そうひ)の時から帝族を大国に封ずることを避けて、厚遇しませんでした。逆に晋は帝族を大国に封じた結果、やがて骨肉の大乱を招くことになりました。

結局、重要なのは制度ではなく、それに関わる人だということでしょうか。

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