田疇(でんちゅう) ※あざなは子泰(したい)

【姓名】 田疇(でんちゅう) 【あざな】 子泰(したい)

【原籍】 右北平郡(ゆうほくへいぐん)無終県(ぶしゅうけん)

【生没】 169~214年(46歳)

【吉川】 第121話で初登場。
【演義】 第033回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・田疇伝』あり。

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封爵を辞退して議郎(ぎろう)のまま生涯を終える

父母ともに不詳。息子がいたものの早くに亡くなったという。

田疇は読書好きで、剣術にも長けていた。

190年、東方で反董卓(とうたく)の義軍が決起すると、董卓は献帝(けんてい)を洛陽(らくよう)から長安(ちょうあん)へ遷した。

この動きを見た幽州牧(ゆうしゅうぼく)の劉虞(りゅうぐ)は献帝のもとへ使者を遣わし、臣下としての節義を捧げたいと考える。

そこで皆の意見を聴き、まだ22歳だった田疇を手厚く招いて従事(じゅうじ)に任じ、彼の供をする車騎を用意した。

田疇は乱賊がはびこる現状を考え、公式の使者ではなく個人の旅行を装うことにしたいと願い出て、劉虞の許しを得る。

彼は自分の家にいた食客の中から、随行を熱望する20人の若者を選んで出発。街道に出ると、西関(せいかん。居庸関〈きょようかん〉)を通って国境を越えた。

そして北山(ほくざん。陰山〈いんざん〉山脈)に沿って朔方(さくほう)へ向かい、間道を進む。こうして長安にたどり着き、使命を果たすことができた。

このとき田疇は、詔(みことのり)によって騎都尉(きとい)に任ぜられる。

しかし、天子(てんし。献帝)が都(洛陽)を離れられ、いまだ落ち着かれてもいないのに、栄誉や恩寵を頂くわけにはいかないとして辞退した。

朝廷は、彼の道義にかなう考え方に感心し、三府(三公の役所)がともに招聘(しょうへい)したが、やはり田疇は受けなかった。

193年、田疇は返書を受け取り幽州への帰途に就いたが、帰り着く前に劉虞は公孫瓚(こうそんさん)に殺されてしまう。

田疇は劉虞の墓に拝礼して霊を祭り、献帝の返書を読み上げると、涙を流して哭(こく。死者に対して大声を上げて泣く礼)する。

この話を聞いた公孫瓚はひどく怒り、懸賞金を出して田疇を捕らえたものの、彼の勇気ある受け答えに感心して処刑しなかった。

それでも公孫瓚は、田疇を軍の管理下に拘束したうえ、旧友らと連絡を取ることは許さなかった。

後に公孫瓚はある者から、義士を閉じ込めたことで人心を失わないか気がかりだと言われ、ようやく田疇を釈放した。

田疇は北方へ帰ると、一族らとともに徐無山(じょむさん)に分け入り、平坦な場所に居を構える。ここで自ら農耕をして父母を養ったが、数年の間に彼の下に帰属する民は5千家を超す。

長老らの推挙で田疇が指導者として立てられると、彼は刑法や婚姻の礼などを定め、学校も建てた。

北方地帯は彼の威光と信義に服し、烏丸(うがん)や鮮卑(せんぴ)も使節と通訳を遣わし、貢ぎ物を届けてきた。

田疇は皆を慰撫(いぶ)して貢ぎ物を受納したうえ、国境を侵犯しないよう命ずる。

たびたび袁紹(えんしょう)は使者を遣わし、田疇に将軍の印を授けて懐柔しようとした。

だが、田疇はすべて拒否して受けない。

202年に袁紹が亡くなると、その息子の袁尚(えんしょう)も彼を招いたが、あくまで田疇は行かなかった。

田疇は、以前に烏丸が右北平郡の高官を数多く殺害したことを忘れず、これを討伐したいと考えていたが、まだ力不足だった。

207年、曹操(そうそう)が烏丸討伐に赴くと、先に使者を遣って田疇を招いた。また配下の田豫(でんよ)に命じ、今回の遠征の趣旨を説明させた。

すると田疇は急いで旅装を整え、使者に付いて曹操軍と合流した。

曹操は田疇を司空戸曹掾(しくうこそうえん)に任じたが、彼を引見するなり茂才(もさい)に推挙し、改めて蓨県令(じょうけんれい)に任ずる。

それでも田疇は任地へ行かず、曹操に随行して無終に宿営した。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

ちょうど夏の雨期にあたり、海岸沿いの低地に水がたまって道路が通れなくなる。

曹操は撤退すると見せかけ、田疇の先導で徐無山を登り、盧龍(ろりょう)から平岡(へいこう)を通って白狼堆(はくろうたい)に登った。

ここで遼西の単于(ぜんう。王)の蹋頓(とうとつ)と交戦。これを大破して追撃を加え、柳城(りゅうじょう)まで到達する。

田疇は功により500戸の亭侯(ていこう)に取り立てられたが固辞。曹操も彼の思いを理解し、それを許した。

やがて遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫康(こうそんこう)が、領内に逃げ込んでいた袁熙(えんき)・袁尚兄弟らを斬り、その首を送り届けてくる。

曹操は、あえて哭する者がいれば斬罪に処すと命じたが、田疇は以前に袁尚から招かれたことがあったので、これを弔った。

だが、このときも曹操は田疇の思いに理解を示し、問題にはしなかった。

その後、田疇は一族とともに鄴(ぎょう)に住んだが、曹操から下賜された車馬・穀物・絹などは、すべて親族や友人に分けてしまう。

荊州(けいしゅう)討伐から帰還すると、曹操は再び田疇を亭侯に封じようとする。

田疇が辞退し、曹操が封爵を命ずることが三、四度に及んだものの、どうしても受けない。

担当官吏から田疇を弾劾する声も上がったが、曹操は決めかね、息子の曹丕(そうひ)と大臣たちに広く議論させる。

曹丕を始め、尚書令(しょうしょれい)の荀彧(じゅんいく)や司隷校尉(しれいこうい)の鍾繇(しょうよう)は、田疇の申し出を聞き入れてやるべきだとした。

それでも曹操は諦めきれず、田疇と仲の良かった夏侯惇(かこうとん)に説かせたが、やはり受けない。

ついに曹操もため息をつき、田疇を議郎に任ずることにした。

214年、田疇は46歳で亡くなった。

管理人「かぶらがわ」より

田疇が袁尚を哭したことについて、裴松之(はいしょうし)が以下のように批判していました。

「田疇が袁紹父子の招きに応じなかったのは、彼らの行いが正しくなかったからである。だから全力で魏の太祖(たいそ。曹操)のために計り、盧龍の策を立てたのである」

「袁尚が逃亡し、遼東で首を授ける羽目になったのは、すべて田疇の建策があったからだ。袁尚を賊徒として扱っておきながら、なぜその首を弔ったりしたのか?」

「以前に召命を受けたことに義理を感じていたのなら、太祖のために袁尚を殺す計略を立て、彼をここまで追い込むべきではない。この田疇の行為は正当性を持たないと思う」

なるほどね……。田疇が袁尚を哭したことに計算があったとは思えませんけど、確かに筋は通っていません。

また、封爵を拒むというのは、自身の節義を示す形としてはイマイチな感じがします。

あくまで節義にこだわるなら、徐無山の時みたいにどこかで隠棲(いんせい)すればいいのでは? とも思えますし――。

曹操の遼西遠征で大功を立てた田疇でしたが、節義の示し方というのは意外に難しいですね。

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