【姓名】 王脩(おうしゅう) 【あざな】 叔治(しゅくち)
【原籍】 北海郡(ほっかいぐん)営陵県(えいりょうけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第120話で初登場。
【演義】 第032回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王脩伝』あり。
明快な忠義の形
父母ともに不詳。王忠(おうちゅう)と王儀(おうぎ)という息子がいた。
王脩は7歳で母を亡くし、20歳になると南陽(なんよう)へ遊学した。
このとき張奉(ちょうほう)の家に泊めてもらったが、その一家が重病にかかってしまう。王脩は親身になって世話をし、一家の病が治ってから立ち去った。
初平(しょへい)年間(190~193年)、王脩は北海太守(ほっかいたいしゅ)の孔融(こうゆう)に召されて主簿(しゅぼ)となり、高密県令(こうみつけんれい)を代行する。
高密県には孫氏(そんし)という有力者がおり、その子分や客人がたびたび法を犯していた。追い剝ぎを働いた者がいても、孫氏のところに逃げ込めば逮捕されなかった。
王脩は役人や民を引き連れて屋敷を囲み、おじけづいた孫氏は罪人を差し出す。これ以来、顔役たちも恐れて服従するようになったという。
後に孝廉(こうれん)に推挙されると、王脩は同郡の邴原(へいげん)に譲ろうとした。孔融は聞き入れなかったが、当時は天下が乱れており、結局、王脩は都へ上らなかった。
しばらくして北海郡で反乱が起こり、孔融は危機に陥る。夜中に王脩が駆けつけると、孔融は功曹(こうそう)に任じた。
このころ膠東(こうとう)にも数多くの賊がいたので、王脩は孔融の命により膠東県令を代行する。
膠東の公沙盧(こうさろ)の一族は強力で、勝手に陣営や塹壕(ざんごう)を作り、租税の取り立てを拒んでいた。
王脩は数騎の供だけを連れて堂々と門から入り、公沙盧兄弟を斬る。一族の者は驚いて刃向かう気をなくし、以後はいくらか乱暴がやんだ。
王脩は休暇中でも、孔融の危難には必ず駆けつけた。そのため孔融はいつも王脩のおかげで難を免れた。
その後、王脩は青州(せいしゅう)の袁譚(えんたん)に召されて治中従事(ちちゅうじゅうじ)に任ぜられたが、たびたび別駕(べつが)の劉献(りゅうけん)は彼をけなし、欠点をあげつらう。
だが、劉献がある事件で死罪に該当したとき、王脩は裁判にあたり助けてやった。当時の人々は王脩の立派さに感心したという。
次いで王脩は袁紹(えんしょう)に召されて即墨県令(そくぼくけんれい)を務め、再び袁譚に仕えて別駕となる。
202年に袁紹が亡くなると、息子の袁譚と袁尚(えんしょう)の関係が悪くなり、袁尚に攻められた袁譚が敗れた。王脩は役人と民を引き連れて袁譚の救援に赴く。
王脩が、兄弟の間で争わないようにと諫めても、袁譚は聞き入れず、袁尚と攻め合った。
翌203年、袁譚が曹操(そうそう)に救援を要請する。
翌204年、曹操が冀州(きしゅう)で袁尚を破ると、袁譚は曹操に背いた。
翌205年、袁譚が南皮(なんぴ)で包囲されたとき、王脩は兵糧を輸送して楽安(らくあん)にいたが、危急を聞くと配下の兵や従事ら数十人を連れて駆けつける。
しかし、王脩が高密まで来たところで袁譚の死が伝わったため、そのまま曹操のもとへ行き、袁譚の遺体を引き取って埋葬したいと願い出た。
曹操はその義心を嘉(よみ)し、願いを聞き届けた。王脩は兵糧の監督を命ぜられ、楽安へ引き返す。
袁譚が敗死すると配下の諸城はみな曹操に降ったが、楽安太守の管統(かんとう)だけは立て籠もって従わなかった。
王脩は管統の首を取ってくるよう命を受けるが、彼が亡国の忠臣であることから、縛めを解いて出頭させた。曹操は上機嫌で赦免した。
袁氏の政治がおおざっぱだったため、配下の重臣は多額の蓄財をしていた。
先(204年)に鄴(ぎょう)を陥した際、曹操は(袁氏の重臣だった)審配(しんぱい)らの財産を没収して目録を作らせたが、それは5ケタの数に上った。
一方で王脩の家を調べると、穀物の蓄えは10石(せき)に満たず、数百巻の書物があるだけだった。
曹操は嘆息して言う。
「士(おとこ)はみだりに名声があるのではない」
王脩は手厚い礼をもって司空掾(しくうえん)に任ぜられ、司金中郎将(しきんちゅうろうしょう)を代行。
ほどなく魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)に昇進すると、強者を抑えて弱者を助け、賞罰をはっきりさせたため郡民からたたえられた
★曹操が司空を務めていた期間は196~208年。
213年に魏が建国されると、王脩は大司農(だいしのう)や郎中令(ろうちゅうれい)を務める。
曹操が肉刑(身体を傷つけたり切断したりする刑)の施行について意見を求めたところ、王脩は、現時点では施行すべきではないと主張して容れられた。
王脩は奉常(ほうじょう)に転じた後、在職中に病死(時期は不明)した。
管理人「かぶらがわ」より
王脩が仕えた孔融や袁譚は、ともに冴えない最期を迎えています。ですが、このふたりの死は自滅であり、王脩の態度は一貫して立派なものでした。
ただ本伝にあった、厳才(げんさい)が反乱を起こし、掖門(えきもん)を攻撃した際の王脩の行動は微妙だと感じました。
「王脩は変事を聞きつけると車馬を呼び寄せたが、その到着を待たず、配下を引き連れて徒歩で宮門まで来た。曹操は銅爵台(どうじゃくだい)から望見していたが、『あそこへ来たのは王叔治(王脩)に違いない』と言った」
「相国(しょうこく)の鍾繇(しょうよう)は王脩に言った。『しきたりでは京城(宮城)に変事があれば、九卿(きゅうけい)は自分の役所にいることになっている』」
「これに王脩が答えた。『禄を食(は)んでいながら、どうしてその危難を捨ておけましょう。役所にいるのがしきたりですが、それでは危難に赴く道義から外れます』」
この話も、王脩が身の危険を顧みずに駆けつけたことを評価しているのでしょうが――。
変事の際に九卿が自分の役所から動かないというしきたりは、無用な混乱を防ぐ意図があると思うのですよね。
そういう事態が起きたとき、いち早く駆けつけるべき役は奉常ではないと思うので、ここでの王脩の動きも微妙かなと……。
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