王襃(おうほう)

【姓名】 王襃(おうほう) 【あざな】 偉元(いげん)

【原籍】 北海郡(ほっかいぐん)営陵県(えいりょうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

父の死を悼んで仕官せず

父は王儀(おうぎ)だが、母は不詳。王脩(おうしゅう)は祖父。姉妹や娘がいたことがうかがえる。

王襃は若いころから品行を修め、礼に外れた行いをしなかった。身長が8尺(せき)3寸(ずん)もあり、容貌が特に優れていたという。

王襃は父の王儀が(司馬昭〈しばしょう〉の怒りを買い殺されたため)天寿を全うできなかったことを悼み、世間との交渉を絶ち仕官しなかったという。そして墓のそばに家を建て、弟子たちに教えて暮らした。

朝夕に墓前で拝礼しては柏樹(はくじゅ)にすがりついて号泣し、悲しみのあまり気を失うこともあった。彼の流した涙のために、その柏樹の色は普通のものと違っていた。

家が貧しかったので自ら耕し、家族の人数を考えて田を作り、身長を測って蚕を飼う。そうした様子を見て、弟子の中には師に代わって麦を刈る者もいたが、王襃はせっかく刈り取ってくれた麦を捨てる。それ以来、誰も麦の刈り取りを手助けしなくなった。

王襃は、おおよそ人の行いは善道に行き着くことを目指すべきであり、自分ができることを持ち出し、それを他人ができないという理由でとがめるのはよくないと考えていた。また、何か贈り物が届けられても受け取らなかったという。

のち(311年)晋都(しんと)の洛陽(らくよう)が崩壊し各地で盗賊が蜂起すると、王襃の一族は江東(こうとう)への移住を望む。しかし、王襃は先祖の墳墓に恋着してなかなか動かず、賊の勢いが盛んになってからようやく南へ向かう。

それでも泰山郡(たいざんぐん)まで来たところ、彼は郷里を懐かしみ進もうとしなくなり、賊の手に掛かり殺害(時期は不明)されてしまった。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王脩伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く王隠(おういん)の『晋書(しんじょ)』によるものです。

父が理不尽な殺され方をしたのですから、王襃の仕官しない態度は納得できます。それでいて、在野で大勢の弟子を教え導くという生き方も、評価されて当然だろうと思いました。

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