劉放(りゅうほう) ※あざなは子棄(しき)、魏(ぎ)の方城敬侯(ほうじょうけいこう)

【姓名】 劉放(りゅうほう) 【あざな】 子棄(しき)

【原籍】 涿郡(たくぐん)方城県(ほうじょうけん)

【生没】 ?~250年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第106回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉放伝』あり。

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孫資(そんし)とともに魏滅亡の一因を作る、方城敬侯(ほうじょうけいこう)

父母ともに不詳。息子の劉正(りゅうせい)は跡継ぎで、劉許(りゅうきょ)と劉熙(りゅうき)も同じく息子。このほかにも息子がいたことがうかがえる。

劉放は、前漢(ぜんかん)の広陽順王(こうようじゅんおう。不詳)の息子である、西郷侯(せいきょうこう)の劉宏(りゅうこう。不詳)の後裔(こうえい)にあたるという。

涿郡の綱紀(こうき)を務めた後に孝廉(こうれん)に推挙されたものの、このころは大乱の時代であり、漁陽(ぎょよう)の王松(おうしょう)のもとに身を寄せる。

204年、曹操(そうそう)が冀州(きしゅう)を平定すると、劉放は王松に進言し、いち早く曹操に従うよう勧めた。

翌205年、曹操が南皮(なんぴ)で袁譚(えんたん)を征討したとき、文書をもって王松を招く。

王松は自身の勢力下にあった雍奴(ようど)・泉州(せんしゅう)・安次(あんじ)の3県を挙げて帰属。その際、劉放が王松のために曹操への返書をしたためたが、これは非常に流麗な文面だった。

曹操は文面に感心し、劉放が王松に帰属を進言した話も聞いたので、劉放についても招聘(しょうへい)した。

この年、劉放は王松とともに許(きょ)に到着。参司空軍事(さんしくうぐんじ)に任ぜられ、主簿(しゅぼ)や記室(きしつ)を経て地方へ出る。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

その後、郃陽県令(こうようけんれい)、祋ウ県令(たいうけんれい)、賛県令(さんけんれい)を歴任した。

213年、魏が建国された後、劉放は太原(たいげん)の孫資とともに秘書郎(ひしょろう)に任ぜられる。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即くと、劉放は尚書左丞(しょうしょさじょう)に、孫資は尚書右丞(しょうしょゆうじょう)に、それぞれ転ずる。それから数か月して劉放は県令に移った。

翌221年、秘書省が中書省(ちゅうしょしょう)に改められると、劉放が中書監(ちゅうしょかん)に、孫資が中書令(ちゅうしょれい)に、それぞれ任ぜられた。ふたりには給事中(きゅうじちゅう)の官位も加えられた。

さらに劉放は関内侯(かんだいこう)に、孫資は関中侯(かんちゅうこう)に、それぞれ封ぜられ、政治の機密を掌握する。

翌222年、劉放は魏寿亭侯(ぎじゅていこう)に、孫資は関内侯に、それぞれ爵位が進む。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、ふたりとも散騎常侍(さんきじょうじ)の官位を加えられる。劉放は西郷侯に、孫資は楽陽亭侯(らくようていこう)に、それぞれ爵位も進んだ。

232年、孫権(そんけん)が将軍の周賀(しゅうが)らを遣わし、海路で遼東(りょうとう)に向かわせる。これは遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫淵(こうそんえん)を味方に引き入れるための動きだった。

曹叡は迎撃したいと考えたが、朝議では多くの者が無理だと述べる。

だが孫資だけは賛成し、結果的に殄夷将軍(てんいしょうぐん)の田豫(でんよ)が周賀を討ち取った。そのため孫資は左郷侯(さきょうこう)に爵位が進む。

劉放は文章を書くのが得意で、三祖(曹操・曹丕・曹叡)が詔(みことのり)などを下して降伏を呼びかけたりする際には、彼が起草することが多かったという。

翌233年、劉放と孫資は、ともに侍中(じちゅう)・光禄大夫(こうろくたいふ)に昇進する。

翌234年、孫権と蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が示し合わせて魏を攻める。このとき国境にあった魏の物見が、孫権から諸葛亮に宛てた書簡を手に入れた。

そこで劉放は書かれていた文章をうまくつなぎ合わせ、宛て先も魏の征東将軍(せいとうしょうぐん)の満寵(まんちょう)に変える。

こうして孫権が魏に降ろうと考えているように見せかけ、これを封緘(ふうかん)し、偽の使者を遣って諸葛亮に届けさせた。

諸葛亮は早馬を遣り、呉(ご)の西陵督(せいりょうとく)の歩騭(ほしつ)に書簡を渡す。

歩騭からこのことを聞かされた孫権は、諸葛亮が疑念を持つことを心配し、自ら丁寧に説明したという。

238年9月、太尉(たいい)の司馬懿(しばい)によって遼東が平定されると、この計画に加わった功により、劉放は方城侯に、孫資は中都侯(ちゅうとこう)に、それぞれ爵位が進む。

劉放は涿郡方城県、孫資は太原郡中都県の出身である。

同年12月、曹叡が病に伏すと、劉放と孫資は曹爽(そうそう)を称賛し、彼と司馬懿に後事を託すよう勧めた。

翌239年、曹芳(そうほう)が帝位を継ぐと、劉放と孫資は重要な決定に参画していたことから、それぞれ300戸を加増される。以前と合わせて劉放の封邑(ほうゆう)は1,100戸となり、孫資は1千戸となった。

劉放の息子ひとりが亭侯に封ぜられ、次子は騎都尉(きとい)となり、ほかの息子たちもみな郎中(ろうちゅう)となった。

翌240年、改めて劉放は左光禄大夫(さこうろくたいふ)に、孫資は右光禄大夫(ゆうこうろくたいふ)に、それぞれ任ぜられる。ふたりには金印と紫綬(しじゅ)が授けられたうえ、儀同三司(ぎどうさんし。三公待遇)とされた。

245年、劉放は驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に、孫資は衛将軍(えいしょうぐん)に、それぞれ転じたものの、引き続き中書監(劉放)と中書令(孫資)を兼ねた。

翌246年、再び劉放の息子ひとりが亭侯に封ぜられる。

248年、劉放と孫資は老年のため退官したが、列侯(れっこう)として毎月1日と15日に参内することが許され、特進(とくしん。三公に次ぐ待遇)を授けられた。

翌249年、太傅(たいふ)の司馬懿のクーデター(正始〈せいし〉の政変)によって曹爽らが処刑されると、孫資は侍中・中書令として復帰する。

翌250年、劉放が死去。敬侯と諡(おくりな)され、息子の劉正が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

この劉放の伝については冒頭からつまずきがありました。漢の広陽順王って誰? その息子の西郷侯の劉宏って誰? という疑問です。

『漢書(かんじょ)』(王子侯表〈おうじこうひょう〉)によると――。

広陽頃王(こうようけいおう。劉建〈りゅうけん〉)の息子に西郷頃侯(せいきょうけいこう。劉容〈りゅうよう〉)がいましたが、これがふたり(広陽順王とその息子で西郷侯の劉宏)のことなのか、まったく関係ないのかイマイチはっきりしません。

ただ、広陽頃王の跡を継いだ広陽穆王(こうようぼくおう。劉舜〈りゅうしゅん〉)の息子に方城侯の劉宣(りゅうせん)もいますので、やはり、劉放は広陽王家の末裔なのですよと言いたいのかなと……。

なお、劉放の事績は孫資とセットになっているものが多く、両者の記事を無理に分けませんでした。この記事にやたら孫資が登場するのもそのためです。

初め曹叡は燕王(えんおう)の曹宇(そうう)を大将軍(だいしょうぐん)に据え、領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)の夏侯献(かこうけん)、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の曹爽、屯騎校尉(とんきこうい)の曹肇(そうちょう)、驍騎校尉(ぎょうきこうい)の秦朗(しんろう)に政治を補佐させようとしていたという。

ところが、曹叡が信任する劉放や孫資の働きかけもあり、最終的には曹爽と司馬懿に後事を託す形になりました。

このとき曹宇らが政治を取り仕切ることで決着していたとしても、司馬懿の台頭は抑えられなかったのでしょうけど……。劉放と孫資は魏が滅亡へ向かう一因を作ったとは言えそうです。

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