李密(りみつ)

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【姓名】 李密(りみつ) 【あざな】 令伯(れいはく)

【原籍】 犍為郡(けんいぐん)武陽県(ぶようけん)

【生没】 224~287年(64歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

育ててくれた祖母の恩を忘れず

父は不詳だが、母は何氏(かし)。李光(りこう)は祖父。

李密は生後6か月で父を亡くし、4歳の時に母も再婚したため祖母の劉氏(りゅうし)に養育される。彼は『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』を始めとして幅広く書物を読み、多事に通じ、頭の回転が速く弁舌さわやかだった。

また祖母への孝行ぶりでも知られ、看病にあたるときは息をひそめて涙を流し、昼夜ずっと帯を解かず、食事や薬は必ず自分で毒味をしたという。

やがて李密は本籍の郡から手厚く招かれたものの応じず、のち州に召され「従事尚書郎(じゅうじしょうしょろう)」となり、「大将軍主簿(だいしょうぐんしゅぼ)」や「太子洗馬(たいしせんば)」を歴任。呉(ご)への使者を務めたりもした。

263年、劉禅(りゅうぜん)が魏(ぎ)に降伏した後、李密は征西将軍(せいせいしょうぐん)のトウ艾(とうがい。登+阝)から「主簿」への就任を要請され、別に手紙も受け取ったが応じなかった。これは高齢の祖母のそばを離れずに孝養を尽くしたいとの思いからだった。

265年、魏の曹奐(そうかん)の禅譲を受け晋(しん)の司馬炎(しばえん)が帝位に即く。

267年、司馬炎が司馬衷(しばちゅう)を「皇太子(こうたいし)」に立てると、李密を「太子洗馬」に任ずる旨の詔(みことのり)が繰り返し下された。郡県も洛陽(らくよう)へ赴くよう圧力をかけたが、李密は上書して、あくまで病床の祖母に付き添いたいと願い出た。

司馬炎は李密の真心を嘉(よみ)し、奴婢(ぬひ)ふたりを下賜したうえ、郡県に祖母の世話を命じてごちそうまで届けさせた。

祖母が死去して喪が明けると、李密は「尚書郎」から「温県令(おんけんのれい)」となったが、その政治と教化は厳格かつ明瞭だったという。

やがて李密は官を辞し、州の「大中正(だいちゅうせい。州内の優れた人物を推挙する役)」に転ずるが、権力者のために意を曲げることはなかった。

のち荀勖(じゅんきょく)や張華(ちょうか)の意向に背いて「漢中太守(かんちゅうのたいしゅ)」に左遷されたが、彼の人柄を知る諸王から無実を訴える声が数多く上がったという。李密は1年で官を去り、287年に64歳で死去した。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・楊戯伝〈ようぎでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く常璩(じょうきょ)の『華陽国志(かようこくし)』によるもの。

また、李密が著した『述理論(じゅつりろん)』10編は、胡熊(こゆう)や皇甫謐(こうほひつ)の称賛を得たとのことでした。

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