許攸(きょゆう)A ※あざなは子遠(しえん)

【姓名】 許攸(きょゆう) 【あざな】 子遠(しえん)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第025話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。

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官渡(かんと)の戦いで大功を立てるも、驕(おご)りが祟(たた)って処刑される

父母ともに不詳。

許攸は若いころから袁紹(えんしょう)や曹操(そうそう)と親しかった。

188年?、許攸は冀州刺史(きしゅうしし)の王芬(おうふん)や沛国(はいこく)の周旌(しゅうせい)とともに、各地の豪傑と連合し、霊帝(れいてい。在位168~189年)の廃位と合肥侯(ごうひこう)の擁立を企てる。

このとき曹操にも参加を求めたが、拒否されてしまう。結局、王芬は事を起こそうとして失敗し、自殺に追い込まれた。

合肥侯は帝族で劉氏(りゅうし)のはずだが、名は出てこない。

189年、袁紹が董卓(とうたく)と対立して洛陽(らくよう)を脱すると、許攸は逢紀(ほうき)とともに冀州へ随行。

200年、官渡の戦いの際、許攸は袁紹に曹操と攻撃し合わないよう諫めたものの容れられず、ほどなく曹操に投降した。

ここで許攸は、袁紹軍の兵糧が蓄えられている烏巣(うそう)を攻めるよう進言。

これを容れた曹操は烏巣の急襲に成功し、大勝を決定的なものとする。

許攸は官渡の戦いで上げた功を頼み、曹操に戯れることさえあり、幼時のあざなを呼んで言った。

「阿瞞(あまん)。私を手に入れていなければ、きみは冀州を得ることができなかったはずだ」

曹操は笑っていたが、心中では許攸を嫌悪した。

その後、曹操に随行して鄴(ぎょう)の東門を通ったとき、許攸は左右を顧みて言った。

「この家(曹氏)の者が私を手に入れていなければ、今のように門を出入りすることはできなかったのだ」

彼の発言を曹操に告げた者がおり、ついに許攸は逮捕のうえ処刑(時期は不明)された。

曹操が鄴城を陥したのは204年8月のこと。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・崔琰伝〈さいえんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』などによるものです。

また『三国志』(魏書・武帝紀〈ぶていぎ〉)の裴松之注に引く『曹瞞伝(そうまんでん)』には、許攸の来降時に(喜んだ)曹操が裸足で出迎えた話や、自軍の残りの兵糧を巡るふたりのやり取りが見えます。

このあたりは『三国志演義』(第30回)や吉川『三国志』(第115話)でも使われていました。

ただし、吉川『三国志』では裸足で出迎えた話を採らず。

許攸の貪欲かつ素行の悪さは荀彧(じゅんいく)の指摘するところで、その人柄は褒められたものではありません。

実力や結果を重視する曹操の下で大功を立てた許攸でしたが――。調子に乗りすぎてしまいましたね。

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