【姓名】 劉劭(りゅうしょう) 【あざな】 孔才(こうさい)
【原籍】 広平郡(こうへいぐん)邯鄲県(かんたんけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第304話で初登場。
【演義】 第103回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉劭伝』あり。
著述を中心に多方面で才能を発揮
父母ともに不詳。息子の劉琳(りゅうりん)は跡継ぎ。
建安(けんあん)年間(196~220年)、劉劭は計吏(けいり)として許(きょ)へ赴いたが、そのとき太史(たいし)は「元旦に日食が起きるに違いありません」と上言した。
ちょうど劉劭は尚書令(しょうしょれい)の荀彧(じゅんいく)のところに立ち寄っており、座中の数十人の中には、朝会や会議を取りやめるべきだと言う者もいた。
すると劉劭は『礼記(らいき)』を引き、天子(てんし)にお目通りするために宮門を入っても、儀礼を終わりまで行わない例が4つ定められていることに触れ、これに日食も含まれていると指摘。
さらに、古代の聖人が日食を理由にあらかじめ朝会を廃されなかった理由は、災異は消え去ることがあり、予知の術は間違うことがあるからだと述べる。
荀彧は劉劭の意見に賛同。慣例通り元旦の朝会を行うこととし、日食も起きなかった。
劉劭は御史大夫(ぎょしたいふ)の郗慮(ちりょ)から招かれたものの、たまたま郗慮が免職になる。
その後、劉劭は太子舎人(たいししゃじん)に任ぜられ、秘書郎(ひしょろう)に昇進した。
曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)には尚書郎・散騎侍郎(さんきじろう)を務める。
劉劭は詔(みことのり)を受けて五経に関する書物を収集し、それらを分類して(諸儒とともに)『皇覧(こうらん)』を編纂(へんさん)した。
『皇覧』は数年を経て完成し、宮中の記録保管庫に所蔵される。これは40余部から成るもので、各部が数十編に分かれており、合わせて800余万字にも上ったという。
226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、劉劭は地方へ出て陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)となる。当地では教育による感化を尊重し、民からたたえられた。
その後、劉劭は中央へ召し還されて騎都尉(きとい)に任ぜられる。
そして、議郎(ぎろう)の庾嶷(ゆぎょく)や荀詵(じゅんしん)とともに法を制定し、『新律(しんりつ)』18編を作ったうえ、別に「律略論(りつりゃくろん)」を著す。
その後、劉劭は散騎常侍(さんきじょうじ)に昇進した。
233年、公孫淵(こうそんえん)が孫権(そんけん)から燕王(えんおう)に封ぜられたことが伝わる。
論者の中には、公孫淵配下の計吏を都に留め置き、兵を出して討伐すべきだと主張する者もいた。
劉劭は、公孫淵の父の公孫康(こうそんこう)が、かつて(207年に)領内に逃げ込んだ袁兄弟(袁熙〈えんき〉と袁尚〈えんしょう〉)の首を斬り送ってきたことに触れ、公孫淵に寛大な処置を取り、自分から心を改め再出発できるようにしてやるべきだと述べる。
後に公孫淵は、孫権が遣わした張弥(ちょうび)や許晏(きょあん)らの首を斬り、魏へ送ってきた。
これを受けて、曹叡は公孫淵を大司馬(だいしば)に任じたうえ、楽浪公(らくろうこう)に封ずる。持節(じせつ)と遼東太守(りょうとうたいしゅ)の地位もこれまで通りとした。
以前、曹叡は劉劭が作った「趙都賦(ちょうとのふ)」を褒めたことがあったので、詔を下して「許都賦(きょとのふ)」と「洛都賦(らくとのふ)」を作らせる。
当時、外では軍の出動が多く、内では盛んに宮殿の造営が行われていた。劉劭は2編の賦を作りはしたが、どちらにも風刺や諫言の意を含ませた。
またこの年、合肥(ごうひ)が呉軍(ごぐん)に包囲される。
征東将軍(せいとうしょうぐん)の満寵(まんちょう)は上奏文を奉り、中央軍の派遣を要請。併せて、交代で休暇を取っている東方在任の将兵を召集し、その集結を待って迎撃したいと述べた。
劉劭は満寵の考えに賛同したうえ、先に歩兵5千と精鋭の騎兵3千を派遣するのがよいと主張。
この先発の援軍は宣伝しながら進み、勢いを誇示して敵を威圧する。騎兵のほうは合肥到着後、隊列を拡散して旗と陣太鼓の数を増やし、城下で兵力を誇示する。
こうして敵を誘い出し、帰路を断つ態勢を示して糧道を脅かす。敵は大軍が着き、その騎兵に背後を断たれたと聞けば、恐れを抱き遁走(とんそう)するに違いないと。
曹叡は劉劭の説に従ったが、援軍が合肥に到着したころ、やはり呉軍は退却していた。
景初(けいしょ)年間(237~239年)、劉劭は詔を受けて『都官考課(とかんこうか)』72か条および「説略(せつりゃく)」1編を作る。
また、儀礼を定めて音楽を整備し、そのことにより風俗を改めるべきだと考え、『楽論(がくろん)』14編を著す。
これは完成をみたものの、献上されないうちに(239年に)曹叡が崩御(ほうぎょ)したため施行されなかったという。
曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)、劉劭は経書を手に講義を行い、関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。
彼の著書は『法論(ほうろん)』や『人物志(じんぶつし)』など100余編もあった。
その後、劉劭が死去(時期は不明)すると光禄勲(こうろくくん)の官位を追贈され、息子の劉琳が跡を継いだ。
管理人「かぶらがわ」より
本伝には、曹叡が優れた人材を広く求める詔を下した際、散騎侍郎の夏侯恵(かこうけい)が劉劭を推薦したという記事がありました。
これはまさしく劉劭を激賞したもので、「(劉劭は)忠節深くて思慮篤実、かつ多才。その複雑で多岐にわたる能力には広く深い源流がある」を始めとし――。
「人柄は穏和で公正。深遠にして謙虚」「論理の展開が精密」「法律の細かな条文に至るまでの正確な知識を持っている」「思考が深くて確固」とか……。
「論議の著作や筆の運びが巧み」「制度の歴史的な変遷の概略をつかんでおり、根本について明らかな識見を持っている」「聡明(そうめい)な思考で微細なものまで見通す」といった具合。
そして夏侯恵は、劉劭のような人物こそ機密のことを補佐し、おそば近くに仕えて意見を上言するのにふさわしく、国の政道とともに栄えるべき人物であり、世間にそういるような者ではないと褒めちぎっています。
このうち一部の表現については、裴松之(はいしょうし)が言いすぎに近いと批判していましたが、実際に様々な分野の著作を残しているので、劉劭の知識の幅が広かったことは確かでしょうね。
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