劉廙(りゅうい)

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【姓名】 劉廙(りゅうい) 【あざな】 恭嗣(きょうし)

【原籍】 南陽郡(なんようぐん)安衆県(あんしゅうけん)

【生没】 180~221年(42歳)

【吉川】 第246話で初登場。
【演義】 第079回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・劉廙伝』あり。

的を射た上奏文で曹操(そうそう)を感心させる

父は劉匊(りゅうきく)だが、母は不詳。劉望之(りゅうぼうし)は兄で劉偉(りゅうい)は弟。

189年のこと、10歳の劉廙が経書を講義する学堂で遊んでいると、司馬徽(しばき)が頭をなでて言った。

「坊や、坊や。(『易〈えき〉』に見える言葉の)『黄中通理(こうちゅうつうり)』を知っているかね?」

兄の劉望之は「従事(じゅうじ)」として劉表(りゅうひょう)に仕えていたが、正論を吐き諫言したことから疎まれ、結局は殺害されてしまう。

劉廙は恐怖を感じ揚州(ようしゅう)へ逃げ、曹操により「丞相掾属(じょうしょうのえんぞく)」に任ぜられる。のち「五官将文学(ごかんしょうぶんがく)」に転ずると曹丕から能力を高く評価された。

曹操が「丞相」を務めていた期間は208~220年。

曹丕が「五官将(五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉)」を務めていた期間は211~217年。

213年、魏が建国されると、劉廙は「黄門侍郎(こうもんじろう)」に任ぜられる。

218年、曹操は長安(ちょうあん)にあって漢中(かんちゅう)の戦況を案じ、親征しようと考えた。すると劉廙は上奏文を奉り、今は要害の地を選んで守り、各方面の守備にあたる兵士を1年ごとに交代させるのがよいと勧め、農耕や養蚕(ようさん)を盛んにして節約を旨とした政治を行い、10年かけ国を富ませ、民を安んずるべきだと述べる。

翌219年3月、曹操は劉廙の意見を聞き入れず、斜谷(やこく)を抜けて陽平(ようへい)に到着。劉備(りゅうび)と対峙(たいじ)したが、同年5月には軍を引き揚げることになった。

同年9月、西曹掾(せいそうえん)の魏諷(ぎふう)が謀反を企てた際、弟の劉偉が計画に加担していたため、兄の劉廙も連座して処刑されるのが当然だった。しかし曹操は春秋(しゅんじゅう)時代の古例を引き、特に劉廙の責任を問わず、「丞相倉曹属(じょうしょうそうそうぞく)」への転任にとどめる。

劉廙には数十編の著作があり、丁儀(ていぎ)と論議した刑罰や儀礼に関する書物と併せ、すべて世に伝わったという。

翌220年、曹丕が「魏王(ぎおう)」を継ぐと、劉廙は「侍中(じちゅう)」に任ぜられ「関内侯(かんだいこう)」に封ぜられた。

翌221年、劉廙が死去したものの息子がいなかったので、曹丕は彼の甥の劉阜(りゅうふ)を跡継ぎとした。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『劉廙別伝』には、彼が曹操を感心させたという上奏文が載せられていました。

それは人材の重要性を説いたうえ、現在の任免や昇進および降格が、州郡における評判に左右されすぎていることを指摘するもので、首長らの頻繁な配置換えをやめ、彼らが手腕を発揮するために十分な在任期間を与えてやるべきだという主張です。

また、1年ごとに能力を調査し、3年後にこれを総括。その時に昇進や降格、もしくは免職を判断すればよいともしました。

加えて、こうした調査はすべて事実に基づくべきで、評判やうわさによって行うようなことがあってはならないと注意を促し、戸数や人口に対する耕田の面積の増減を始め、逃亡および反逆者の割合、盗賊の発生状況などを基に判断すれば、無能な者は名声を得ても利益がなく、有能な者は名声が得られずとも損害を受けない。上級官庁が監督せずとも、うまく立ち回って得ただけの名声やでたらめの非難を一掃することができる、とも述べています。

劉廙の上奏文からは当時の勤務評定の実態や問題点がうかがえ、なかなか興味深いですね。

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